君ら(男子)のいる場所は我々はすでに三千年以上前に通過している

80年代以降の文化推移を見ていこうとしている。今回はいろんな反応が情報収集に役立っているのだが、その探している経過の中で、非常に秀逸な論考を見つけたのでmemo。
個人的には『電波男』は本田透さんの「告解のサクラメントみたいなものと解釈していて、ひょっとしたら本田氏の個人的なモノかも知れないこの「秘跡」がどのような形で伝播し、リテラシーを広めるモノとして使われていくのだろうと非常に興味深く見させてもらっている。
ただそんな中で、類推として栗本薫の小説道場における様々な「説諭と批評」と似ているような気がするなぁとか考えていた。
そした水筒日記において、そのものズバリ、本田透さんが別の本に書いた小説を、小説道場からデビューした野田史子の書いた小説に比して論考している文章にぶち当たり、あまりの的確さにひっくり返った。

水筒日記
(前略)
けれどふしぎに胸に残るのは本田氏の小説です。これはもうどうしようもなく心をつかみます。そしてわたしはこの種類の小説を過去に何度も読んだことがあります。栗本薫が雑誌「JUNE」で主宰した「小説道場」という投稿企画の初期に集まった短編のかずかずです。
あのころの「小説道場」によせられていた小説は膿を出すかのようにして綴られたものがほとんどで、それがいまも活躍している作家だとしてもあのころの痛みをもった小説は書けなく、または書かなく、正しくは書く必要がなくなっています。本田氏のいまの小説にはそのにおいがするのです。
(中略)
小説家・本田透にもそういう道があることを、老婆心ながらここに書いておこうと思いました。

いや、すごい。
魔拳“烈海王”が、空手の最終兵器・愚地克巳に叩きつけるセリフを思い出した。

君ら(男子)のいる場所は我々はすでに三千年以上前に通過しているッ!

モテ/非モテ中二病サークルクラッシャーへの対応の種別としては、男性は「自分の急所を晒しながらの叫び」に、女性は「経験に基づく論理と感性の双方に溢れた諫言」に唸らされることが多い。