週刊少年サンデーは危機的状況である。去年の1年間で実売が100万部から80万部に落ち込んでいる。
サンデーを支える三人の支柱の一つ、藤田和日郎が講談社モーニングでシリーズ連載を開始する。おそらくクライマックスを迎えつつある犬夜叉が終わったらサンデーは終了するんじゃないかというぐらいの体たらくだ。
そこにようやくベテラン・西森博之が帰ってきた。しかもかなり良さそうな感じである。この作品自体がサンデーの売れ行きを伸ばすと言うことはないだろう……けれどもやはり着想力に優れた西森博之だけあって、おそろしく現代性のあるテーマを含む物語を語り始めた。
かつて週刊少年サンデー読者だった人、もうサンデーは駄目だと見きった人であってもぜひ一読を勧める。
そんなサンデー期待の新連載「お茶にごす。」を最速レビューする。
■西森博之と少年サンデーの不良マンガのひな形
学校のマンガ研究会に置かれていると言われるサンデーは、元々、頭の良い少年少女の御用達雑誌という側面がある。
少年漫画には不良が主人公のコミックというのは、なんらか一つは存在するものであるが、そういった頭の良い自意識過剰な少年向けのサンデーに掲載されるいわゆる不良系コミックで、後に影響を残した者はかなり捻ったものが多い。
その源流は何処にあるかというと、それは雁屋哲原作・池上遼一画の『男組』から始まったと言っていいだろう。父親殺しの罪状を持つ男・流全次郎。詳しい内容はWikipediaを見てもらうこととするが、注目してもらいたいのは原作が反権力思考の持ち主で、やはり無茶苦茶頭のいい雁屋哲だったということだ。その持ち味がもっとも活かされたのは、後の『野望の王国』な訳だが、基本的に主人公は、不良であっても頭が良く、非情であっても合理を尊ぶ不良な主人公として描かれる。
これはやがて週刊少年サンデーにおける不良主人公のひな形となってしまう。そのためいわゆる不良系のマンガ……これには主人公が不良以外にも拳法家、殺し屋、常識はずれのボクサーなども含む……であっても、週刊少年サンデーに掲載されている以上は、主人公が何故強いのかというのは、色々な理論や合理を持って説明され、その強さや行動規範は合理で説明される。ある種、マガジンとは違った週刊少年サンデー独特の不良マンガというジャンルが形成されていく。
その合理を尊ぶという基本形があるため、例えば週刊少年マガジンやヤングマガジンと言った講談社系の不良マンガにある「ラッキーマンとしての不良」というのは、基本的に週刊少年サンデーでは存在しない。合理ではない、主人公が生まれ持った幸運によって偶然勝ち上がるという、「力も知恵もない読者が楽しむマンガ」というのは、「力はなくても知恵はある」サンデー読者からは毛嫌いされてしまうためだ。
その完成系が西森博之なのである。
そのため、西森の書く不良マンガは、よくよく見るといわゆるマガジンに代表される不良マンガとはかなり違った、より捻った設定であるものが多い。
●『今日から俺は!』
主人公の三橋・伊藤は、高校1年の時の転校をきっかけにツッパリになろうと思った二人組。二人とも喧嘩は強いが、三橋は「卑怯・ずる賢さ」、伊藤は「怒ってキレた時」が強いと設定されている。不良モノの漫画には珍しく、主人公の敵にも味方にも暴走族構成員が登場せず、ヤンキーギャグ漫画でありながら下ネタが非常に少ないのも特徴。
●『スピンナウト』
異世界冒険活劇。ヤンキー漫画家が異世界冒険ファンタジーを書くというと、どうしても梅澤春人の「SWORD BREAKER」の魔城ガッデムとか思い浮かぶがそんなことはない。ファンタジーの良作。
●『天使な小生意気』
主人公は魔法によって男にされたと思いこんでいる絶世の美少女・天使恵。いつか男に戻りたいと思いながらも、占い師の予言を頼みに剣ヶ峰高校へ入学してくる。「女の中の女」という美貌を持ってしまいながら、幼なじみの美木のために「男の中の男」を目指す少年=女の子がいかに自身と折り合いを付けていくかを描く。
●道士郎でござる
主人公はアメリカで何故か武士になって帰ってきた道士郎と、勘違いからその殿とされてしまった弱気な健助。健助は道士郎と知り合ったことで、悪を見て見ぬふりをすることが出来なくなり、不良高校に転校したり、かわいそうなヒロインを救うために凶悪なヤクザの若頭との闘いに巻き込まれる。
おそろしく捻っていて、普通に読めば単なる不良マンガにしか読めないが、
こうして書いていくと、西森博之は一貫して不良=Badboysをモチーフとしながらも、頭の良い少年が、不良とか魔法によって女に変えられてもココロは少年というある種の非合理な世界のまっただ中に置いて、いかに少年として暴力に立ち向かっていく男らしさを堅持できるか?というビルドゥングスロマンを描こうとしていることが分かる。
「不良」や「プロ市民」にならずに生き抜いていく「平凡なボク」 - さて次の企画は
「道士郎でござる」はスゴイ - さて次の企画は
その西森の描く新連載が『お茶にごす。』である。
簡単なあらすじを述べるなら
「自分の意図しない強い男性性によって、他人を傷つけてしまうことに苦悩する少年のストーリー」
である。
■男性性を見つめ直すのがテーマの『お茶にごす。』
西森博之の新連載の主人公・船橋雅矢は、自称・ロハスな生き方を目指す、心優しい少年であるのだが、あまりの強面・悪魔ヅラのため、周囲の人間を恐れさすばかりにとどまらず、中学時代は次から次へと喧嘩を売られる。心ならずも売られた喧嘩に全部答えていき、それに全勝してきた「負け知らず」で「無敵伝説」の持ち主。
そのために付けられたあだ名が
悪魔(デビル)まークン
という超危険人物。だが高校入学を気になんとかヒョーキンさを足して、素敵で穏やかなスクールライフを送りたいと願っている。
そこでまずは部活に入ろうと思うのだが、中学時代の悪評と強面のため、どこの部活も入れてくれない。
ところが、そこで茶道部の女性部長が見た目で人を判断してはいけないという勇断を下したため、茶道部への入部を決めてしまうのだった。
だが、すでに入学登校日より女の子を救うために不良で名高い軽高をぶちのめしてしまった船橋に果たして平穏な高校生活が望めるであろうか?というのが基本設定だ。
……いや、すごいよ、西森博之。やはり不良マンガを書く中で抜群に頭が良いのは間違いない。
こうした設定を一読するだけで、そのテーマが狙っている射程距離は果てしなく遠いことが一目瞭然で分かる。
一つには「男性性からの逃避願望」「女装少年ブーム」というのを明らかに意識しているだろう。私自身はあまり重視はしていないが、このあたりははてな界隈で盛んに論じられていることもあるし、なにより「ハヤテのごとく!」において、ハヤテが何度と泣く女装してしまう事に対するアンチテーゼみたいなものが含まれているのは間違いない。
はてなダイアリー
またもう一つは「道士郎でござる」が突きつけていた、
「男の子が要求されるロマンとどのように折り合いを付けるか」
「文化的に必ず男の子に要求され続ける《大きな物語》=ロマンと自分の立ち位置の微調整」
というのをより進化させようとしているのが分かる。
個人的に、美少女ゲームとか本田透氏あたりが巻き込まれている「女装少年ブーム」「実際の女性を傷つけてしまう男性性」云々は割とどうでもいいと思っている。まぁ本田さんには一度、「なんでそんなに女装少年が好きなんですか?」とは聞いてみたいけど。
ただ後者のテーマは非常に興味深い。
主人公・船橋雅矢は、自分が巻き込まれてしまった「闘いの修羅の道」の原点は、親友である山田が近所の中学生にカブト虫を奪ったのを取り返すために小学三年生の時に闘って買ってしまったことだと思いこんでいる。
そこで、その歴史をリセットするために、山田にコーカサスオオカブトをプレゼントして、こうつぶやくのである。
「よし、おれはあの時中学生に殴りかからなかった」
「悲しんでいたお前に俺の宝虫を譲ってやった」
「仁の星を持つ男だ」
「変わった…」
「俺の運命は今、動いた」
「俺はあの時喧嘩をしなかった」
これを一読すれば分かるが、これはヴィジュアルノベルで選択を誤ってしまい、嫌なエンディングを見てしまったプレイヤーが、「俺はこんな選択はしていなかった」「こっちがトゥルーエンドだ」と言う風につぶやくのと非常によく似ている。
西森博之は頭が良いから東浩紀氏とか美少女ゲーム論あたりを視野に入れているな…と思わされる一瞬である。
でも、そうした主人公の妄想は、彼の親友である山田に一蹴されてしまう。
「そんなわけないだろ」
この一つの台詞をとってみただけで、うん、これは確信的に西森がストーリー作りをしているのが分かる。
このあたりが西森博之のすごいところで、
前々作「天使な小生意気」では、
「人間はトラウマに疾駆させられるだけではない」
「オタクだって脇役だって立ち位置はあるはず」
というのをおそろしく早い時期からテーマ的に指摘していた。
また前作「道士郎でござる」では、
「力ない少年にとっても、少年的なロマン=大きな物語は存在する」
「たとえ弱くても正しい行いを見守る超越的な存在はあるし、またなければならない」
というちょっと気恥ずかしいテーマである。けれどもそれをガツンと描けてしまうところが、西森の凄いところであるし、また先進性なのである。
新作『お茶にごす』で西森が描こうとしているのは、
「男である以上、かならず人を傷つけてしまう」
「男である以上、文化的に要求されるロマンがある」
「それをいかに自己のアイデンティティとして折り合いを付けるか」
多分、大きな物語が消失してしまったポストモダン状況において、それを真っ正面からそれを描くことはしない。それは非常に難しいし、多分、真っ正面から立ち向かっても勝ち目がない。となると宮台真司みたいに無理矢理、天皇論とかを持ち出さなきゃならなくなるから。
「第7回 師匠、宮台真司はなぜ「転向」したのか?――鈴木謙介インタビュー其の三」 日刊!ニュースな本棚|Excite エキサイト : ブックス(文学・書評・本のニュース)
それはタイトル『お茶にごす。』からも類推される。主人公は茶道部に入りますが、大上段に構える訳じゃなくて、『お茶をにごす。』ように《なんとか》この状況をやり過ごす立ち位置を見つけますよという宣言でもあるわけだ。
だが、主人公の正体はおそらく想像を絶する存在のはずだ。
おそらくは西森博之は本作の射程圏に、永井豪も捉えているからである。
■悪魔(デビル)まークンは、デビルマンの暗喩
主人公・船橋は、次々と続く闘いの修羅の道に疲れ果て絶叫する。
(復讐のためにやってくる不良を)
「撃破!! げきは!! ゲキハ!! 撃破!!! げきは!!! ゲキハ!!!」
「いったいこの道の終わりはいつ来るんだよ」
《背景に延々と続く人類の歴史が描かれる》
それに対して、主人公の親友の山田はこう心の中でつぶやく
「終わらないよ」
「俺は終わらない理由を知っている」
そう、主人公の船橋が限りない闘争に巻き込まれて、不良どもと戦い続け勝ち続けなければならないのには訳(=設定)があるのだ。
この理由はオイオイあかされていくだろうが、まぁおそらくはちょっと非常識というかオカルティックな理由なのではないかと思う。
それは、主人公の別名のネーミングに秘密があると思う。
「超危険人物よ、
船橋雅矢、別名・
悪魔(デビル)まークン」
「悪魔(デビル)!?」
ちょっと不自然なあだ名だなと思う読者もいるだろう。私もそう思った。
わざわざルビまでふって「悪魔まークン」を「デビルマークン」と読ませているのである。「アクマノマークン」ではなく、「デビルマークン」なのだ。
これはすなわち
「悪魔(デビル)まークン」とは、「デビルマン」ですよ。
ということ示す暗喩(メタファー)な訳だ。
そう船橋雅矢とは不動明だ。
そして、ハンサムな割に喧嘩っ早くて、どうやら舟橋をたびたび闘争に駆り立てるきっかけを作ってしまうらしい親友・山田とは飛鳥了だ。
主人公がなぜ闘いを呼び続けるのかと言う理由は、オイオイ説明されだろう。だがこういう暗喩が含まれているということは、本作品を読む上で絶対に欠かせないポイントだ。
おそらくは少年時代になんらかのオカルティックな体験があり、悪魔と合体してしまったというのが、主人公・舟橋の設定であることを予感させる。
すなわち、『お茶にごす。』これは
自身の魔性(=強すぎる男性性)を理解していない少年が、それをいずれ理解したとしても、自身のためにセカイを「変化」「破壊」することなく、セカイと一緒に生きていきたいと願うストーリー
な訳だ。
これは新しい。スゴイよ!
「セカイ系ライトノベル」「女装少年モノ」のように引きこもることなく、「DEATH NOTE」(デスノート)・「コードギアス 反逆のルルーシュ」の夜神月やルルーシュのように決断主義のネオコンで生きることもない道=ロマンを探そうとしているわけだ。
はっきり言って西森博之の先進性というのは、業界でもほとんど理解されていないが、こう読み説くととそのテーマ性が凄いことが分かるだろう。
要注目作品である。