ふつう大学サークルは3〜4年で飽きる、コムニタスの時代変遷メモ

この週末に人と会いまくっている中で、数々の面白い言説を聞いたのでmemo。

高校時代に大学生活に似た体験をおくれるエリート高校生の会話

地方の全寮制エリート高校出身者と、都内の無受験で大学進学可のエリート高校出身者(ともに編集者・ライターである)の会話を聞いていてい面白いなぁと思ったこと。
通常ならば「大学に入ってから経験するコムニタスな生活」が、「全寮制エリート高校」「無受験で大学進学が可能なエリート付属高校」だと、高校生時代に経験することが出来ることに気がつく。

  • 通過儀礼をすでに成し遂げた気楽さ
  • 同一性の高い若者同志での集合生活
  • 各々が背負う社会階層・立場からの短期間の乖離

というコムニタスな社会を高校生時代におくれるというのは幸せかも。
高校生時代に、こうしたヌルいサークル=コムニタスな社会=若衆社会を送っていると、大学生活において「もう、こうしたサークル活動を大学で行うには飽きた……」みたいな感じになって、別の作業時間をとることが出来るというのはよいかもしれない。
もっとも、高校生時代にそうしたサークル活動に飽きた挙げ句、大学に入ってサークルを支配願望を持って、「スーフリ」みたいなサークルを作ったり、ボランティアサークルでプチ教祖を気取ろうとする奴も登場するらしいので、良し悪しという気がしないでもない。
【追記】
「受験という一般的に通過儀礼として認められている苦行を拒否した学生のDQN」と、「ネットでモヒカン族と戦っているネットジャンキーの中高生」が、それぞれ「チーマーor珍走団」「ネット北斗の拳」という、擬似コムニタス経験者であるということはもうちょっと掘り下げてみる(←ジャーゴンを使いすぎ!)。
【追記02】
高校時代が進学校であったが、準備会やSFファンダム、パラクリといった学外の大人サークルにハマったというパターンが年代別にどのように変遷するかというのも興味深い問題だ。80年代の準備会とSFサークル等は学外のコムニタスサークルとして機能していたかどうかを要検証。
90年代のゲームセンターは等々……。よしだんだん絞り込めてきた。

【参考】
特集
こんな感じの架空セカイで遊ばなきゃいけないというのは分かる。
▼子供から大人へのイニシエーション儀礼
▼「コムニタス」と「構造」
【参考】
読冊日記2001年6月上旬
コムニタス」というのは、文化人類学者のヴィクター・ターナーが考えた概念で、通過儀礼(イニシエーション)の中での人間関係のあり方を意味する。コムニタスとは、「身分序列、地位、財産さらには男女の性別や階級組織の次元、すなわち、構造ないし社会構造の次元を超えた、あるいは棄てた反構造の次元における自由で平等な実存的人間の相互関係のあり方である」のだそうだ。
 通過儀礼を受ける人は、まず社会から分離され、コムニタス的な関係を経て、また社会へと戻って行く。で、ターナーは一般に社会というと社会構造と同一視されるが、社会には構造とコムニタスの両面が必要で、社会とは「構造とコムニタスという継起する段階をともなう弁証法的過程」である、と述べている。なんだかややこししいけど、ついてきてますか?
 さて、この「コムニタス」の概念と境界例を結びつけたのが河合隼雄である(「境界例とリミナリティ」という論文)。境界例コムニタスへの希求はきわめて強い、と河合隼雄はいう。つまり、境界例の人は、親子関係であるとか偽善的な決まりごとであるとか、そういう社会の序列や構造が極端に苦手(あるいは嫌い)で、身分も地位もない生身の関係を強烈に求めている、というのですね。また、精神科医の鈴木茂も、境界例には「構造的なものに対する徹底的な脆弱さとコムニタス的関係様式への絶対的帰依」があると書いてます。
 ただし、「コムニタス」には社会的身分も役割もないので、「常に生身がさらされる、きわめて緊張をはらんだ、互いに傷つきやすい関係であり、長くそこにとどまることは苦痛である」。ターナーも、コムニタス状況は長期に渡って維持されることはない、と書いている。たとえばサークルや宗教団体など、当初はコムニタス的だった集団があったとしても、そこにはやがて「構造」が生じ、自由な関係はいつのまにか「社会的人格の間の規範=支配型の諸関係に変化してしまうのである」。