最近読んだ本

WORLD WAR Z

WORLD WAR Z


某作家から薦められた本。船橋のときわ書房に在庫があったので購入。こういうのが3冊も在庫してあるから宇田川さんのところは侮れない。
明らかに新たな時代を切り開いたゾンビ物。今年のベストは小川一水さんの天冥の標 2 救世群 (ハヤカワ文庫JA)と思っていたのだが……、まだ自分の中でどちらがベストか決められないところ。
これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学


売れてるだけあって面白い。他の著作も読もう。
星の舞台からみてる (ハヤカワ文庫 JA キ 7-1) (ハヤカワ文庫JA)

星の舞台からみてる (ハヤカワ文庫 JA キ 7-1) (ハヤカワ文庫JA)


さよならペンギン (ハヤカワ文庫 JA オ 9-1) (ハヤカワ文庫JA)

さよならペンギン (ハヤカワ文庫 JA オ 9-1) (ハヤカワ文庫JA)


ともどもに非常にできのいいSF。二つの意味でハヤカワJAの幅を広げてくれる本。
一つ目は「ライトノベル作家がSFを書ける幅をさらに拡大した」
二つ目は「バリバリのSFファンじゃない、30代男性が読めるSFのラインナップが充実しつつある」
という意味で。

ローラーガールズ・ダイアリーとグラン・トリノ

ローラーガールズ・ダイアリー(原題Whip it!)の出来がともかく良いという話を聞いているのだが、東京ですら1館−東宝シネマシャンテ−でしか上映していないので見に行くことができない。
書道ガールズよりはこっちだろうと思うのだけれどもなぁ。
公式サイト
『ローラーガールズ・ダイアリー』公式サイト

ドリュー・バリモアの初監督作品。
一説にはクリント・イーストウッドの後継者はドリュー・バリモアだとどっかに書かれたとか書かれていないとか。それは褒めすぎだろう。「プレシャス」とは違った意味で楽しめそうな映画だ。
ドリュー・バリモアの次回監督作品は「オズの魔法使い」の続編という話があるのだが本当だろうか?
6月はいろいろな映画が公開されるので楽しみ。

ハリウッドの女性嫌悪を『プレシャス』が解呪した。さて「戦後日本のロボットもの」「戦後の坂本龍馬人気」「士郎正宗の呪い」の解呪法は?

GW期間中に映画を見に行こうと思っていたのだけれども、ティム・バートンの『アリス〜』を見ただけで終わってしまう。いつものティム・バートンらしからぬ捻りのない話で,割と予定調和で終わってしまうので今ひとつ映画を見終えたという満足感に欠けたかな?
そう言う意味では、内田樹が褒めていた『プレシャス』を見た方が良かったかも。内田はこの映画を指して下記のように述べている。

これまで作られたすべてのハリウッド映画は、ジョン・フォードからウディ・アレンまで、『私を野球に連れてって』から『十三日の金曜日』まで、本質的に「女性嫌悪(misogyny)」映画だった。女性の登場人物たちは男たちの世界にトラブルの種を持ち込み、そのホモソーシャルな秩序を乱し、「罰」として男たちの世界から厄介払いされた(「悪い女」は殺され、「良い女」は一人の男の占有物になる)。女たちにはそういう話型を通じて父権制秩序を補完し強化する役割しか許されなかった(と私が言っているわけではない。70年代からあと山のように書かれたフェミニスト映画論がそう主張していたのである)。
『プレシャス』はその伝統にきっぱりと終止符を打った。本作はたぶん映画史上はじめての意図的に作られた男性嫌悪映画である。
(中略)
『プレシャス』は、アメリカ社会に深く根ざし、アメリカを深く分裂させている「性間の対立」をどこかで停止させなければならないという明確な使命感に貫かれている。

なぜハリウッド映画に、女性嫌悪の思想が根付いているかと言うことについては、レディ・ファーストの裏返しであり、西部開拓時代の女性の数の絶対的な不足が原因であるのではないかという話については、内田の著作に詳しい(ちなみにハリウッドの子供嫌悪についても書かれています)

映画の構造分析

映画の構造分析


でもGW期間中は、なかなかタイミングが合わなかったため、なんとかこの週末にでも見に行く時間をこじ開けようと思ってるとこ。
『プレシャス』は、アメリカのハリウッド映画にかけられた呪いの解呪の話なのだけれども、ここで書こうと思っているのは、今回のエントリは日本の映画やコミックにかけられた呪いの話
昼間は仕事しながら、夜はボンクラ映画話やら、アイアンマン2の話やらでこのGW期間中は知り合いの映像制作会社の社長さんやらと盛り上がっていたんだけれども、「戦後日本のロボットモノ」「士郎正宗の呪い」「戦後の坂本龍馬人気」の三つが論点として重なってきた。
日本の戦後ロボットモノに関しては、基本的に以下のような構造があるのはよく言われる。

父的存在によって、必ずしも善なる意図で製造されたわけではないロボットを、少年が操縦したときにのみ、それは社会的に正しい力を振るうことができ、少年の善なる闘いにより、少年は社会的に認められた男になる

「なぜ主人公の少年は強いのか」というのは、ストーリーを作るのに重要な設定の一つなのだけれども、わりと戦前までの冒険小説や江戸の黄表紙本などで、肯定的な評価を得ていた「軍隊的な肉体的な鍛錬」「歴史伝統的な修業」が認められなくなってきた上でのある種の苦肉の策というのは想像に難くない。
サルまん」でいう、「いやボーン」は、確かに「楽」という側面もあるけれども、指摘されていなかった要素の一つとして、これもまた戦後のロボットもののように「悪の中から正義を生み出す」という表象の一つなんだろうなとも思う。江藤淳だねぇ、仮面ライダーもそういう構造だけど。
こっちのブログで述べられてる、第9地区と日本のロボットを絡めた話も面白いので参照のこと。
ヴィカス、お前は神にも悪魔にもなれる!:『第9地区』 - 冒険野郎マクガイヤー@はてな

自らの意志が物理的な力として反映されるロボット。男が一人で世界と対峙する為のロボット。『エイリアン2』のパワーローダーやトランスフォーマーも到達しえなかったロボ魂がここにある。『第9地区』はハリウッドが初めて作りえた真っ当なロボットもの説に一票。や、プロデューサーはニュージランド、監督は南ア出身だけれども。

ただ個人的には95年の時からの認識として、「少年がその善性によって世界を一気に変えようとしたときこそ、ハルマゲドンが招来される」って気もするんだよねぇ。なんだかんだいいつつ、ヴィカスはヴィジュアル的にも肉体的には大人なんでやっぱりそこはアメリカンな感じ(主演俳優は今度、特攻野郎Aチームでクレイジーモンキーやるらしいことを考えると、やっぱりアメリカ視点ではこどもなのかなぁ?)
さて、もう一つ。たまに編集の現場などで用いられる「士郎正宗の呪い」という言葉があって、

政治的に錯綜した状況下で、凄惨かつ陰惨な警察・軍事ミステリを書こうとする場合、主人公を銃器の取り扱いに長けた女性にしてしまった方が、創作しやすくまた市場にも受け入れやすいという日本の傾向

のことを指した形で使われる。っていうか、使っているのは俺だけかも知れないけれど。まぁ「スプリガン」以降あたりからは、主人公が「戦闘体験に長けた少年」というのもどんどん増えてきたけれども、エンターテインメントの形で、主人公が大人の男性であるのを極端に避けるのは、やっぱり描きにくいからなのだろう。
【その貴重な例外として、新谷かおるがいるけれども、なかなか新谷かおるの後継者って出てこないですね】
まぁこの二つは第二次世界大戦での敗戦の体験がベースにあるからだろうが、昨日の大河ドラマブログの更新を見て、戦後の坂本龍馬人気もわりとそういった延長線の上にあることに気付かされた。
妄想大河ドラマ ... 英雄なき時代の英雄

坂本龍馬はなぜ人気があるのだろう?
(前略)
戦前と戦後で、価値の大逆転が起こりました。そして既成の権威が否定され、個の確立が叫ばれ、価値を相対化していくことが流行となった。当然、その過程で英雄の性質も変貌するわけです。単刀直入に言いましょう。

戦後、価値観が大変化したことにより、
敵をたくさん倒した。
見事に仇を討った。
何かを守った。
何かに殉じた。
こういうタイプの英雄が素直に尊べなくなったわけです。
(中略)
そんな中で「新たな英雄の形」を提示してみせたのが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』だったのではないでしょうか。まず、脱藩浪人ではあるけれども「軍人」の臭いがしない人物であること。旧態依然とした枠組みを飛び出す個人主義者ともいえること。日本を「狭く、保守的」であると語ることが許され、世界に目を向ける大人物として描けること。日本初の株式会社を作った事と経済成長のリンク。反戦平和主義者に「してしまっても違和感のない」人物であること(武器商人としての一面も、言葉はアレですが誤魔化そうと思えば誤魔化せる)。流行りの「反体制」を仮託させることも可能だが、「過激派」ではない。そして政治家や政商になるわけでもなく、維新のさなかにこの世を去ってしまう。
戦後民主主義の時代に適応した英雄
そういう存在として「坂本竜馬」は誕生したのではないでしょうか。

この指摘はかなり納得することが出来た。
司馬遼太郎「第二次世界大戦における日本のありかたに対する不信から小説の筆をとりはじめた」という述懐から照らし合わせても、「龍馬がゆく」で新しい英雄像をつくりあげたというのは胸に落ちる。
ちょっとこのブログを読んで、「戦後日本ロボットものの隆盛」「士郎正宗的の呪い」「戦後の坂本龍馬人気」というのが、ハリウッドにおける「女性嫌悪」みたいな感じで、「同根の抑圧から派生してきた」と理解できた。
抑圧がらみからすると、「日本的なオタクに好まれるヒロイン像」についてや、801ちゃんが書いているBL規制についての悲鳴みたいなtwitter−−というか、あれはマッチョイズムだかなんだかに対する悲鳴以外のなにものでもないから色々とある訳なんだが−−あたりも書きたいんだけど、それはまた今度。

山形にて深町秋生・平山夢明両氏の小説家になろう講座拝聴

朝四時起きして山形に行って、日帰りするという強行軍にこれから出発。
4月25日のチラシ - 深町秋生のベテラン日記
山形着いた。いい天気で空が広い‼
帰ってきました。色々な方にお世話になりました。ありがとうございます。
深町秋生さんを「Perfume」ネタでいじり続ける平山夢明さんは悪魔のようでした(いつものことだけど)。

永井豪が、エスパー魔美について思うこと

 高畑さんは非モテどころか、小賢しいSF少年にとって「唯一実現可能な《モテ》のロールモデルだと思うんだが、このあたりはまた今度書くことにして、永井豪が「藤子・F・不二雄大全集 エスパー魔美」第4巻の巻末に寄せた解説が色々と示唆の深いものだったので、ちょっと引用する。

藤子・F・不二雄大全集 エスパー魔美」第4巻
F先生とのファンタスティックメモリー
永井豪

エスパー魔美 4 (藤子・F・不二雄大全集)

エスパー魔美 4 (藤子・F・不二雄大全集)


(前略)
 (藤子・F・不二雄先生の)お人柄にすっかり魅了された私であったので、藤本先生の訃報が届いたときは、本当に辛く悲しかった。お亡くなりになってしばらくしてから、S社の編集者から『エスパー魔美』に関するこんな話が伝わってきた。
 当時のマンガ界は、私の『ハレンチ学園』がヒットした影響で、ハレンチ・マンガの人気が高くなり、多くのマンガ家が編集から、エロチックなマンガを描くように要求されたという。
 そうした風潮が、藤本先生にまでも及ぶこととなった。少年マンガに女の子の色気は描きたくない」と仰る先生に対して、編集サイドが強引に迫ったのだと聞いた。
 要求を受けてかどうか真意は判らないが、藤本先生が描いたのは、ヌードモデルをする少女、魔美だった。
 魔美のヌードは、とても可愛いが、色っぽさとは無縁の、清潔感あるサッパリしたものだ。その清潔感は、「子供達にエロチシズムを与えたくない」とお考えになった、藤本先生の決め事だったのだと思う。
 私は、性徴期にある子供達が異性に興味を抱くことは、ごく自然なことであり、エロスを感じることは必要、という考えで作品を描いてきた。しかし、私が少年マンガに持ち込んだエロチシズムが、藤本先生に辛い思いをさせたのでは? と思い、心が痛んだ。このことを、先生のご生前に知っていれば、謝れたのにと残念でならない。
 しかし、藤子・F・不二雄マンガの一ファンである私としては、“これで良かったのだ!”と思っている。何故なら、清潔感ある魔美のヌードを美しいと感じ、父親ためにヌードモデルをする魔美の健気さをいとしく思い、すべてをひっくるめた魔美のキャラクターが大好きだからだ。エスパー魔美』の魅力は、ヌードシーンにより倍増され、光り輝く傑作になったと考えている。
(後略)

 永井豪が後半で述べている、「『エスパー魔美』の魅力は、ヌードシーンにより倍増され、光り輝く傑作になった」というのにはまったく同意すると同時に、藤子・F・不二雄が語る少年マンガに女の子の色気は描きたくない」「子供達にエロチシズムを与えたくない」という考えもわかるので難しい。
 まぁ藤子・F・不二雄が愉しんで書いていなかったとはまったく思わないし、そうじゃなければドラえもんでのしずかちゃんのお風呂シーンなんて描かないよなとおもいつつも、こういうことを永井豪が思い悩んでいたということにはちょっと驚きがあった。
 永井豪が『ハレンチ学園』のせいでPTAから魔女裁判の如く扱われていたという事実の裏側で、出版社からはマンガ家にエロを描かせようという要望が発生し、それが藤子・F・不二雄にも及んでいたというのは知らなかったのでメモ。
 クリエイター側の創作意欲だけじゃなくて、1ジャンルが売れるとそれを後押ししてしまうエンジンとして、編集者や出版社があることに今以上に自覚的になろうと思った。
バトル・ロワイヤル」がホラー大賞選考委員から嫌われて落とされた後に、大ヒット。それに類する類書が数多く出てきたというのと微妙な符号がある。
個人的には、自分が子ども時代に読んでいたぐらいの性描写・暴力描写は一般流通OKだと思うのだけれども、それってたんなる個人のノスタルジーから来る判断基準でしかないだろうとも思うので、どうすりゃいいのかなぁと実務レベルで困っている感じ。
非実在有害図書 (内田樹の研究室)
については、珍しくも内田樹に、もうちょっと斜めから議論として練り込んだものを書いて欲しいなーと感じた。
 内田樹であるならば、

欧米において(とくにアメリカにおいて)「子ども」に賦与された基本的な社会的特性の第一は「狡猾さと攻撃性」であった。
トムとジェリー』に代表される「小動物による相対的に巨大な動物へのエンドレスの欺瞞と裏切り」説話はアメリカでは定番だが、わが国にはなかなか類するものが見あたらない(強いて探せば「かちかち山」だが、これは太宰治の卓抜な読解が教えるように、「少女の中年男への生理的嫌悪」と解釈する方がおさまりがいい)。
ホーム・アローン』というのもカルキン坊やの狡知と(ほとんど節度を失った)暴力性が印象的であった。
『キンダーガルテンもの』『保育所もの』というジャンルも存在するが、それらすべてに共通するのは、「度し難い悪童たちに、ひとのよい大人が振り回される」という話型であって、「無垢で純真な子どもたちが、邪悪な大人によって繰り返し損なわれ、傷つけられる」という話型はアメリカ映画では好まれない。
「児童虐待」という問題を考えるときには、当該社会において「児童」という社会的存在が「どのようなもの」として観念されているか、自分たちの社会における同一語をそのまま適用することを自制することがたいせつであるように私には思われた。
内田樹の04年11月のアーカイブから】

ってな感じで、海外との文化比較あたりから斬り込んで欲しかったけど、「表現の有害/無害論」「相関関係の有りや無しや」から書かれちゃったので、あまり新味がなかった。
今月の読書で、個人的なベストは小川一水の「天冥の標2」だったが、ベスト2で樋口毅宏の「日本のセックス」。相変わらず凄まじいまでのノワール描写に酔えます。

天冥の標 2 救世群 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標 2 救世群 (ハヤカワ文庫JA)


日本のセックス

日本のセックス

バーン・ノーティスと伊藤計劃さん

地上波放映が始まってから、「バーン・ノーティス」に嵌っているのだが、これを見るとどうしても伊藤計劃さんならこれをどう見たかな?」という疑問が頭から離れない。
「冷戦が終わり、見える敵がいなくなった後のスパイたち」というのは伊藤計劃さんのモチーフの一つだった。これはこの間、小飼弾さんの家にお邪魔したときに、弾さんが「ここ何十年かでもっとも物語世界に影響を与えた下部構造は『冷戦』」と話されてなるほどと膝を打ったのだけれども、それとあわせて考えてみても興味深い。
TSUTAYAなどは、『「24」「プリズン・ブレイク」に続く第三の男』みたいな感じで本作を売ろうとしているのだけれども、バーン・ノーティスの主人公マイケルって、ジャック・バウアーマイケル・スコフィールドみたいな《冷酷でクールな格好良さ》とは、ちょっと違う。もっとウェットな感じの主人公だ。

マイケル・ウェスティンは東欧・OPEC諸国を中心に活躍するCIA工作員。が、なぜかナイジェリアでの任務中、組織から解雇されてしまう。命からがら、たどり着いたのは、故郷のマイアミ。元カノのフィオナ・グレナンや口うるさい母親と距離を置きたい彼は一刻も早く、マイアミを去ろうとするが、FBIから監視され、おまけにカードは使用停止、口座も凍結され、無一文状態。やむなくスパイ技能を利用した日銭稼ぎのトラブル・シューター業をはじめつつ、自分を解雇した謎の人物を探り始める

というのが大体のあらすじ。
これって構造的には、完全に時代小説の枠組みの一つである「浪人お助けモノ」である。
「自分には分からない不条理によって、力を奪われた男が再び立ち上がろうとする」というストーリーの根幹はマッチョなのだけれども、

「親友だけど、年金のために主人公の情報を売る頼りない仲間」=サム
「やたらに暴力的な、元IRAのエージェントの元カノ」=フィオナ
「健康な癖に病気を心配するヘビースモーカーの《大事な》お母さん」=マデリン
「貧富の差が激しい中で、必死に生きる貧乏な依頼人たち」=下町の風景

えーっと、「これはどこの陽炎の辻ですか?」ってな人情モノになってるんだよね。
「泣いている女性は見捨てられない」「子供にはとことん弱い」などのキャラクター造形は、ハードボイルドという点で、東直己が好きな人にはたまらないなーとも思う。北海道とマイアミという違いはあるけど。
港湾都市ってのは密貿易とかのネタを作りやすいので、「マイアミバイス」しかり「あぶない刑事」しかり、刑事物の舞台としてよく採用されるのだけれども、「卑しい町の騎士=ハードボイルド」−−大抵は雨降ってたり、硝煙やらスモッグやらで煙っているといったような街を舞台−−を、太陽照りつける生活感のないリゾート都市マイアミでやるってのが興味深い。
「ストレートに発揮することが許されなくなってしまった男性性を持つ自分とは何か」みたいな自意識ってのは、こういう話を扱うとどうしてもつきまとってきて、まぁ「女性刑事」「女性探偵」というパターンでスルーする方法もあるのだけれど、本作では「ストレートに出すのをついためらってしまう、シャイでちょっと情けない男」として描いていて新しい。
スパイ活動で得た技能を使った日銭稼ぎとしてマイケルが何をやっているのかというと、「振り込み詐欺で年金を奪われた老人に金を取り戻してやる」「マフィアの事故現場を観て、警察に通報してしまったがゆえに脅迫されている母娘を逃がしてやる」etc.という地域社会のプチ正義の味方というか、何でも屋さんな訳だ。
もともとマイケルが、マイアミを飛び出て世界を飛び回るスパイになったのも、暴力的だった父から一刻も離れたいというのが遠因だった。そんな父が残した遺品である旧式のダッチ・チャージャーを巡る車絡みの弟(これまたギャンブル好きで生活力のないダメ人間)とのエピソードは、ちょっとグラン・トリノみたいでイイ感じ。あっちはデトロイトだけれども、マイアミも同じような非対称な街だ。
また、栗田貫一の吹き替えを聞くと、ルパン三世の別バージョン/オルタナティブ」として機能してしまうのがいいんだよね。ルパンが探偵をやっている「探偵ジム・バーネットもの」を読んでいるような感覚?といってもいいかもしれない。余談だが声優変わってから、あんまりルパンも観ていなかったのだけれども、コレを契機に栗田寛一のWikipediaを読んでみると、その真面目さにビックリしたり……。
それとドラマ内での金のないマイケルが行う電子工作が、冒険野郎マクガイバーを思い起こさせるのも大いに楽しい。
TSUTAYAでは大プッシュされているのだけれども、近所のDVDは全然レンタルされていないし、売れているのかな?まぁはっきり言って、キャッチフレーズに偽りがありすぎて、24やプリズン・ブレイクのような爽快感をみんな期待すると腰抜かすからなぁ。
スパイ・ゲーム」に代表されるスパイ陰謀モノが大好きだった伊藤計劃さんが、バーン・ノーティスをどんな風に楽しく見たかっていうのが、頭から離れない。もっと描かれるべき話が合ったのは間違いないが、その中に余録として例えばこういう「バーン・ノーティス」や「特攻野郎Aチーム」のように少し明るくてユルい話があったらそれを読みたかったなと思った。
こういう「浪人お助けモノ」だと、最終的に浪人ではなくなった時に、主人公は果たして「旧藩への復職」を取るか、「窮地を救ってくれた下町の人情」を取るかみたいなアンビバレンツに最終的に到達して、そこでどちらを選択するかという難しいラストがあるのだが、そういう時に本作も、そして本作をもし伊藤計劃さんが観ていたら、迷わず後者を取れるような作品になるか、ちょっと感慨深げに思ってしまうのである。

伊藤計劃記録

伊藤計劃記録


バーン・ノーティス 元スパイの逆襲 DVDコレクターズBOX

バーン・ノーティス 元スパイの逆襲 DVDコレクターズBOX

五木寛之氏が、直木賞選考委員を辞任の表明

なんか打ち合わせから帰って来たらこんな事に……。

社会 - 毎日jp(毎日新聞)
 直木賞選考委員を務める作家の五木寛之さんが、選考委員を辞任する意向を示していることが分かった。19日発売の日刊ゲンダイの連載エッセーで明らかにした。
 エッセーによると、22日発売の「オール読物」3月号(文芸春秋)に掲載される選評の中で、受賞作の一つ、佐々木譲さんの「廃墟(はいきょ)に乞う」について「大きな間違いをした」として、文芸春秋に辞任を申し出たという。同社は、選評で五木さんは「破顔した」という表現に触れたが、佐々木さんの作品中にはない勘違いだったと説明している。五木さんがミスに気づき連絡したが訂正は間に合わなかった。同社は「現在は強く慰留しているところです」と話している。

多忙すぎて式には足を運べなかったのだけれども、その場では何か臭わせるようなことってあったのかな?
【追記】
ああ、話題になっていたんだ。俺の捕捉が遅かったんか。