ハリウッドの女性嫌悪を『プレシャス』が解呪した。さて「戦後日本のロボットもの」「戦後の坂本龍馬人気」「士郎正宗の呪い」の解呪法は?

GW期間中に映画を見に行こうと思っていたのだけれども、ティム・バートンの『アリス〜』を見ただけで終わってしまう。いつものティム・バートンらしからぬ捻りのない話で,割と予定調和で終わってしまうので今ひとつ映画を見終えたという満足感に欠けたかな?
そう言う意味では、内田樹が褒めていた『プレシャス』を見た方が良かったかも。内田はこの映画を指して下記のように述べている。

これまで作られたすべてのハリウッド映画は、ジョン・フォードからウディ・アレンまで、『私を野球に連れてって』から『十三日の金曜日』まで、本質的に「女性嫌悪(misogyny)」映画だった。女性の登場人物たちは男たちの世界にトラブルの種を持ち込み、そのホモソーシャルな秩序を乱し、「罰」として男たちの世界から厄介払いされた(「悪い女」は殺され、「良い女」は一人の男の占有物になる)。女たちにはそういう話型を通じて父権制秩序を補完し強化する役割しか許されなかった(と私が言っているわけではない。70年代からあと山のように書かれたフェミニスト映画論がそう主張していたのである)。
『プレシャス』はその伝統にきっぱりと終止符を打った。本作はたぶん映画史上はじめての意図的に作られた男性嫌悪映画である。
(中略)
『プレシャス』は、アメリカ社会に深く根ざし、アメリカを深く分裂させている「性間の対立」をどこかで停止させなければならないという明確な使命感に貫かれている。

なぜハリウッド映画に、女性嫌悪の思想が根付いているかと言うことについては、レディ・ファーストの裏返しであり、西部開拓時代の女性の数の絶対的な不足が原因であるのではないかという話については、内田の著作に詳しい(ちなみにハリウッドの子供嫌悪についても書かれています)

映画の構造分析

映画の構造分析


でもGW期間中は、なかなかタイミングが合わなかったため、なんとかこの週末にでも見に行く時間をこじ開けようと思ってるとこ。
『プレシャス』は、アメリカのハリウッド映画にかけられた呪いの解呪の話なのだけれども、ここで書こうと思っているのは、今回のエントリは日本の映画やコミックにかけられた呪いの話
昼間は仕事しながら、夜はボンクラ映画話やら、アイアンマン2の話やらでこのGW期間中は知り合いの映像制作会社の社長さんやらと盛り上がっていたんだけれども、「戦後日本のロボットモノ」「士郎正宗の呪い」「戦後の坂本龍馬人気」の三つが論点として重なってきた。
日本の戦後ロボットモノに関しては、基本的に以下のような構造があるのはよく言われる。

父的存在によって、必ずしも善なる意図で製造されたわけではないロボットを、少年が操縦したときにのみ、それは社会的に正しい力を振るうことができ、少年の善なる闘いにより、少年は社会的に認められた男になる

「なぜ主人公の少年は強いのか」というのは、ストーリーを作るのに重要な設定の一つなのだけれども、わりと戦前までの冒険小説や江戸の黄表紙本などで、肯定的な評価を得ていた「軍隊的な肉体的な鍛錬」「歴史伝統的な修業」が認められなくなってきた上でのある種の苦肉の策というのは想像に難くない。
サルまん」でいう、「いやボーン」は、確かに「楽」という側面もあるけれども、指摘されていなかった要素の一つとして、これもまた戦後のロボットもののように「悪の中から正義を生み出す」という表象の一つなんだろうなとも思う。江藤淳だねぇ、仮面ライダーもそういう構造だけど。
こっちのブログで述べられてる、第9地区と日本のロボットを絡めた話も面白いので参照のこと。
ヴィカス、お前は神にも悪魔にもなれる!:『第9地区』 - 冒険野郎マクガイヤー@はてな

自らの意志が物理的な力として反映されるロボット。男が一人で世界と対峙する為のロボット。『エイリアン2』のパワーローダーやトランスフォーマーも到達しえなかったロボ魂がここにある。『第9地区』はハリウッドが初めて作りえた真っ当なロボットもの説に一票。や、プロデューサーはニュージランド、監督は南ア出身だけれども。

ただ個人的には95年の時からの認識として、「少年がその善性によって世界を一気に変えようとしたときこそ、ハルマゲドンが招来される」って気もするんだよねぇ。なんだかんだいいつつ、ヴィカスはヴィジュアル的にも肉体的には大人なんでやっぱりそこはアメリカンな感じ(主演俳優は今度、特攻野郎Aチームでクレイジーモンキーやるらしいことを考えると、やっぱりアメリカ視点ではこどもなのかなぁ?)
さて、もう一つ。たまに編集の現場などで用いられる「士郎正宗の呪い」という言葉があって、

政治的に錯綜した状況下で、凄惨かつ陰惨な警察・軍事ミステリを書こうとする場合、主人公を銃器の取り扱いに長けた女性にしてしまった方が、創作しやすくまた市場にも受け入れやすいという日本の傾向

のことを指した形で使われる。っていうか、使っているのは俺だけかも知れないけれど。まぁ「スプリガン」以降あたりからは、主人公が「戦闘体験に長けた少年」というのもどんどん増えてきたけれども、エンターテインメントの形で、主人公が大人の男性であるのを極端に避けるのは、やっぱり描きにくいからなのだろう。
【その貴重な例外として、新谷かおるがいるけれども、なかなか新谷かおるの後継者って出てこないですね】
まぁこの二つは第二次世界大戦での敗戦の体験がベースにあるからだろうが、昨日の大河ドラマブログの更新を見て、戦後の坂本龍馬人気もわりとそういった延長線の上にあることに気付かされた。
妄想大河ドラマ ... 英雄なき時代の英雄

坂本龍馬はなぜ人気があるのだろう?
(前略)
戦前と戦後で、価値の大逆転が起こりました。そして既成の権威が否定され、個の確立が叫ばれ、価値を相対化していくことが流行となった。当然、その過程で英雄の性質も変貌するわけです。単刀直入に言いましょう。

戦後、価値観が大変化したことにより、
敵をたくさん倒した。
見事に仇を討った。
何かを守った。
何かに殉じた。
こういうタイプの英雄が素直に尊べなくなったわけです。
(中略)
そんな中で「新たな英雄の形」を提示してみせたのが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』だったのではないでしょうか。まず、脱藩浪人ではあるけれども「軍人」の臭いがしない人物であること。旧態依然とした枠組みを飛び出す個人主義者ともいえること。日本を「狭く、保守的」であると語ることが許され、世界に目を向ける大人物として描けること。日本初の株式会社を作った事と経済成長のリンク。反戦平和主義者に「してしまっても違和感のない」人物であること(武器商人としての一面も、言葉はアレですが誤魔化そうと思えば誤魔化せる)。流行りの「反体制」を仮託させることも可能だが、「過激派」ではない。そして政治家や政商になるわけでもなく、維新のさなかにこの世を去ってしまう。
戦後民主主義の時代に適応した英雄
そういう存在として「坂本竜馬」は誕生したのではないでしょうか。

この指摘はかなり納得することが出来た。
司馬遼太郎「第二次世界大戦における日本のありかたに対する不信から小説の筆をとりはじめた」という述懐から照らし合わせても、「龍馬がゆく」で新しい英雄像をつくりあげたというのは胸に落ちる。
ちょっとこのブログを読んで、「戦後日本ロボットものの隆盛」「士郎正宗的の呪い」「戦後の坂本龍馬人気」というのが、ハリウッドにおける「女性嫌悪」みたいな感じで、「同根の抑圧から派生してきた」と理解できた。
抑圧がらみからすると、「日本的なオタクに好まれるヒロイン像」についてや、801ちゃんが書いているBL規制についての悲鳴みたいなtwitter−−というか、あれはマッチョイズムだかなんだかに対する悲鳴以外のなにものでもないから色々とある訳なんだが−−あたりも書きたいんだけど、それはまた今度。