「切り込み隊長」と「引きこもりの人」のニート対話が面白い=続きすぎる「セカイ系」「能力系バトル」ブームへの疑念

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無業者や引き籠もりに関して

実に面白い。世間や社会へと立ち向かう態度の表明の違いが、そのまま「セカイ系」に応対する態度や、蔓延する「能力系バトル」「最初から天才の主人公」といった漫画・小説作品に対応しているかのように読みとける点だ。
あ、今日の画像は昔好きだった女優、メリッサ・スー・アンダーソン。大草原の小さな家のメアリーですね。
現代においては「セカイ系」に象徴される青春モノへの耽溺は、おそらく労働適応年齢によって子供と大人を峻別する近代社会成立以降においては麻疹のように誰もがかかるものではないだろうか。それまで自分が所属していた善悪が明確な子供の社会から、ある時点で清濁が混じり合った灰色の社会構造で生きていくことを誰もが要求される中で、青臭い青春モノは「教養小説」「教育小説」とも異なり、若い世代へのある種とストレス解消装置として働くともいえる。
大塚英志的に言えば、「止められない成長する肉体」や「通過儀礼」だ。ちょっとマッチョ的・即物的過ぎるとは思うけれど、まぁ見方として近接している。
ホールデン・コールフィールドでも、庄司薫くんでも、村上春樹の小説主人公でもブギーポップでも何でも良い。人生の青年期から大人に至るある一瞬の「コムニタス」状態で成立するのが、「青春小説」なんじゃないかなとオイラは考えている。
ところが最近、どうにも理解を超えているのが、いつまでたっても「セカイ系」に耽溺する人々だ。ノスタルジックに振り返って青春小説を読むといったのとは違う。キャラクターも世界も読者も決して成長・融和することなく、気持ちの良い世界の中でいつまでもフワフワと漂っている。う〜ん、これは何なのだろうか? この存在が微妙にオイラの中では、切り込み隊長が不気味と表現しているニートと非常に重なる。
その問題と同根なのではないかなと思いつつ、個人的に気持ち悪くてしょうがないのが、主として小中学生がハマっている「努力を要しない天才たちが主人公の物語」だ。「テニスの王子様」しかり「機動戦士ガンダムSEED」しかり。どうにもああいった傲慢・横柄な主人公へのシンパシーを、どのように受取手が感じているのかが、オイラには非常に分かり難い。
それが、この「切り込み隊長」と「引きこもりの人」との対話でかなり見えてきた。

引きこもりの人

この状況においては、社会の価値観を受け入れる=自分の無能を認める。という事になります。

切り込み隊長

ちと待ってくれ。凄く気になることがあるのだが、最初から有能である誰かというのは存在しえるのだろうか。社会の価値観はたとえ誰かを無能であるとの烙印を押したとしても、それはその時点でのことであって、働き暮らしていく間に自分のなかの素養や資質を発見して、それを磨く機会も与えるはずだ。最初から有能な人間はごく一握りで、それでも大多数の人は平凡なところからスタートしても役割を見つけていくことで派手ではなくても慎ましく幸せに暮らしていくだけの役割を果たすことができる。その役割のひとつひとつが積み重なって社会だとするなら、価値観を受け入れるかどうかと関係なく、自分を磨く時間がゆっくりと自分を押し上げ、社会として必要とされる人間になるのだろうと思う。

ここで発言している引きこもりの人の発言を聞いて、個人的に「テニスの王子様」が何であんなに当たっているのかが、分かったような気がする。
基本的にジャンプ「努力・友情・勝利」というテーゼに対して、「テニスの王子様」の主人公は、最初から万能・努力不要な主人公だ。
潜在的に才能があったとしても、最初は才能の片鱗も見えない主人公が、天才型のライバルに苦労努力の末に勝っていくというのが、カタルシスに繋がるのではないかと思うのだが、最近の読者はその努力という過程自体をすっ飛ばしている。
主人公の努力する姿に対して抱いていたはずのシンパシーが、今の小中学生の読者には通じない。実例として分からなかったことが、この「隊長との対話」の中で分かってきたような気がする。ここまで傷つきやすくて若いときの自分の無能力と向き合えないとすると辛いだろう。小中学生は「テニスの王子様」にハマり、高校大学生がいつまでたっても成長のない「青春モノ」を耽溺する気持ちというのはこういうことなのかと少し分かったような気がする。……いや誤解かも知れないが……。
「能力系バトル」への異常な読者の付き方も同じ根っこなのかなという気もまたする。強さのインフレにならないパズル的なストーリーラインを作った荒木飛呂彦による「能力系バトル」は、旧来の忍者モノ・「猿マン」で語られていた「超能力もの」を新たな形で再発見したという意味で非常に画期的であるのだけれども、最近は単なるカードバトルであるかのように薄っぺらいキャラクターを創出する単純生産工場と化している。
能力系バトル漫画はある意味で、キャラクターのアイデンティティ確立の手法として非常に良くできていたと思う。
例えば水滸伝南総里見八犬伝や、スポーツ題材のコミックのように1チームの数をなんらかのルールによって上限を付ける(=人気が出たときに継続しにくくなる)訳でもないのは優れていたけれど、週刊少年サンデーの「植木の法則」で出てきた「眼鏡好きにする能力」を最北端にして、『ああ、人間のアイディアには上限があるんだ』と思わせると同時に、あまりに「カードバトル」チックな世界観と連結しないアイディアは、逆にストーリー漫画をつまらないモノにしている。
そして何より「能力系バトル」がつまらなくなってきてしょうがないのは、その能力が殆ど<天与>のモノに過ぎなくて、後天的な努力や、人と人との関係性から獲得された能力ではない点だ。
なんだろう? 今の子供達の考える自分が自分である特別な存在って、みんな<天与>のものでしかないのか? そんなモノでゲームがすべて規定されるのだろうか? 確かに同系統能力レベルの差を描いているのって「ジョジョ」と「HUNTER×HUNTER」ぐらいしかない様な気もする。
ちょっと切り込み隊長のブログから部分引用する。

切り込み隊長

しかしだ。しかしだよ。そういった自分一人で未来を切り拓く力が弱かったとしても、自分のために超えられないかわりに、誰かのために、もしくは何かのために力を尽くすということはできないものなのか。例えば、親のために、家族のために、自分と笑って語らってくれる友人のために、共通の趣味を持つ同好の士のために、好いた異性のために、欲しいもののために、組織のために、民族や国家のためにといった、目的を自分以外に持つやり方はしないものなんだろうか。
 嫌われたくない、裏切りたくないといった基本的な自己防衛については分かる。私だって、語りかけて拒否的な反応されたらどうしようとか日常的に思っている。それが厭だから、わざと忙しくしているというのもあるかもしれない。
(中略)
マクロで、ニートが何十万人という話にしたって、昔からある現象が言い換えられただけかも知れんが、改めて考えてみると釈然としない。というか、これほど納得のいかない現象はない。このざらざらとした、得体の知れない不気味な閉塞感はいったい何だ。
 本当は、いま私たちのいる社会の価値観そのものも試練に晒されているんだということも書こうかと思ったが、ちとそういう気分にもなれない。

90年代の半ば以降からだろうか……奇妙なことにそれはバブル崩壊と時間的に近接しているのかも知れないし、それを端的なメディアコンテンツとして、庵野監督が「新世紀エヴァンゲリオン」で描いたと言えるのかも知れない……努力を軽視し、卑屈なまでに冷静に自分の限界を規定し無関心を装う小説コンテンツと、あるいは無邪気なまでに主人公キャラクターが天才で傷つかないコミックコンテンツ。
マーケットの大多数はまだまだ旧来の価値基準を持った作品が多い訳だし、実はメディアに関わった時間の長いコバルト編集部の田村編集長に言わせると「こんなブームは瞬間的に過ぎず、波の揺り戻しは幾らでもある」という話になる【そういったことが言えるのも30年近く、最も売れた少女小説に居続けたという経験があるからなのだが】。その意味では余り心配することでもないのかも知れない。
余りに長く続く「セカイ系」ブームやら、無邪気なまでの「純愛系」ブーム、そろそろ次の波が欲しいなぁと思う。
ただそれには、ひょっとするとコンテンツ製作部分だけではない、もっと社会的な契機が必要なのかも知れない。それを「切り込み隊長とニートとの対話」で、少し感じた。

桜坂洋の新作がやろうとしている、セカイ系との決別の解説はまた明日にでも。

【追記】
桜坂洋ネタは明後日かな? ゲーム系からのアクセスが膨大なので、ちょっと久々に趣向を変えてX-B0X2、コードネーム「ゼノン」やら執行部若返りについて書きます。
http://www.microsoft.com/xna/