70〜80年代のSF系サークル事情:<strong>「姫」</strong>の概念

まだまだ先達のオタク第1世代から伝達を受けなければならない情報が、無茶苦茶多いのであるが、状況が格段に改善されつつある感じ。

話を聞き、文章を読んでいて気がついた特徴的キーワードを一つ抜き出してみよう。

「姫」

オタク・サブカル系サークルにおける数少ない女性を指した呼称オタク第0世代・第1世代において70年代〜80年代に使われていた場合が多い。基本的にサークル内に女性が1人という状況での使用が多い。
その用語に意図されるように、基本的に下記の属性を持つ

「姫」概念が持つサークル内での意味

プラスの側面

  • 希少価値という聖性を持った存在
  • 恋愛対象と見るには近寄りがたい
  • 傷つきやすい故に保護しなければならない
  • 特異な視点と価値を集団にもたらす尺度(「虫めづる姫君」)
  • マスコット性

マイナスの側面

  • どこか浮世離れしたところがある
  • 我がままな性格を一面として持つ
  • きつい労働とは無縁である

この場合、90年代と異なって恋愛問題が発生しない場合が多い。
学生時代にこうした背景事情を持った上で「姫」というボキャブラリー定義に触れていた機会が多いため、オタク第1世代(1960年前後)に生まれた小説家・漫画家・ライターの周囲には「姫」とあだ名された女性や「●●姫」と呼ばれた女性、また「姫」という定義にこだわる人物が必然的に多いような気がする。
例えば新井素子「素子姫」「姫」と呼称されていたのが、その最たる例と言えよう。
80年代後期から90年代に入り、バブル景気・バンド&ディスコブーム・ファンタジーブームを経験した後で、オタク・サブカルサークル内における女性人口が増えたのと、「タカピー」「女王」という概念がメディアから流入するに従い、急速に「姫」という概念は若い世代からは薄れはじめる。
ファンロードにおいて、「最近は『姫』と言っても新井素子のこととわからない奴が増えたので寂しい」という投稿が増えはじめるのと微妙に同期している(笑)
竹熊健太郎が自身のサイトのおいて、
ページが見つかりません:@nifty
といった形で、「・彦」の定義にこだわるのもその影響があるのかなと推察するけれどどうだろうか? まぁこの場合、「姫」の方が、90年代になって決定的な形での「バトルヒロイン」「バトルプリンセス」という形態を作り出すので、そっちの影響が強いかもしれないが。
小野不由美は、エッセイ「ゲームマシンはデイジーデイジーの歌をうたうか」で友人を「姫」と呼んだりと、気にしてみるとちょっと面白い目撃が多いような気がする。栗本薫の趣味性が強くなってきた中での「俺の姫」の存在はまた違うと思うが(笑)

ほぼ同年代の批評家という意味でササキバラゴウの「「美少女」の現代史 (講談社現代新書)」での視線にも触れておこう。氏の著作において、フィクション上のキャラクターとして「姫」の存在を持っていた作品が数多く触れられていたことも重要だ。

の二者をもって決定版とするだろう。70年代後半の作品になるが、クリエイターの中でも実在の「姫」存在をベースモデルにした作品が生まれる

まぁ、セイラは要するにチョキさんだからなぁ……。富野作品には欠かすことの出来ない、<高貴な血を引き主人公と共闘or対立するヒロイン><主人公と同じ社会階層の幼なじみヒロイン>の二項対立として描かれはじめる。
後者は、ササキバラゴウ大塚英志の定義した「姫」「傷つきやすいが故に傷つかない」「主人公をヒーローにする」といった概念を多少はみ出している辺りが、興味深い。やはり実在の人物をベースモデルにするとそうなるのかなぁ?

こうした「姫」概念を持つサークル内の女性は、サークルクラッシャーとして機能することはむしろ少ない。文学サロンの女代表の様に、むしろ集団の創作活動を加速する方向で進むことがあったりするから面白い。半面、「姫」たるあだ名と定義は、女性を生身の存在としては見ていない「偶像」としている視点においては、逆差別なのではないかという箇所もあるので、個人的には「素子姫」という言い方はあまり好きじゃない。オタク第2世代であるため、世代的にもうちょっと生身・身体性を重視しているのかも知れない。

ただオタク・サブカルサークル内における女性人口が、ファンタジーブーム・バンドブームを経由した後に増えてくることによって、より「恋愛対象としての女性」という存在がクローズアップしてきて、その結果、普通のテニスサークルの様で起きる問題が、オタク・サブカルサークルにおいて頻発してくるようになってくる。

少年が青年を経て大人になっていく過程において、女の子の概念がどのような形で変遷していくかを、オタク・サブカルサークルにおける女性イメージの変遷とともに追跡・検証していくのが個人的に興味を引いているところ。

根本レベルにおいて、サークルクラッシャーとは、「女の子に慣れていない俺らってどうよ」という伊集院光ちっくな視点の下に作っている自虐的な概念なので、それが他者への揶揄と思われちゃうとちょっと違うなぁって感じは凄くする。なんで「げんしけん」において、サークルクラッシャーが出てこないかというと、「表現が難しいから」「まず先に現代オタクの概念を確定させてから」という部分もあると思う。

中二病よりも、より高度な取り組み方が出来るところが面白い部分でもあるんだけどね。

もう一つ、70年代〜80年代のSF系サークル内の立場を表す概念として、サークル運営が上手い男性代表を呼ぶ「シャチョー」というあだ名と定義がある様な気がする。
ただこちらはまだ考察不足。