オタク・イズ・デッド:弱っている岡田斗司夫氏&オタク神としてのキラ

興味深く見てきたDEATH NOTEが終わった。どういう終わり方になるのかなぁと思った中では割と予想の範疇ではあった。
ところがその後の色んな業界の反応の方に驚くものが多かった。特にビックリしたのは岡田斗司夫氏の反応だ。岡田氏は本人のブログ内において「連載初回から最終回まで無駄な話が一つもない完璧さ」だとは書いてある。まぁこれはちょっとハマっちゃったんだねということでよく分かる。
ただ何よりも感じたのは、岡田さんはひょっとしてここ十年はじめてというくらいに弱っているのでは?という印象だった。それを確信させたのは、オタク・イズ・デッドでのイベントで話に聞く岡田さんの様子だ。
オタク・イズ・デッドのイベントの第三部で、感極まって泣きそうになったという岡田氏の様子が目撃されている。ひょっとすると、オタク第一世代の星オタキングはまさに瀕死なのかもしれない。
だって、そうじゃなければ、岡田斗司夫がキラを神としてみるなんてことはあり得るはずがないじゃない(笑)
岡田氏のサイトには次の記述がある。

http://putikuri.way-nifty.com/blog/2006/05/post_5fbb.html
(前略)
しかし、この世界のほとんどは松田と同じ「弱い人間」だ。
 天国を地獄を、つまり神を希求する。
 占いを、オーラを、前世を信じたくなる。
 誰か強くて賢い人間がすべてを決めてくれるなら、それに従いたくなる。
 
 キラはそんな「弱者たちの希望の星」だ。
(後略)

あの岡田斗司夫氏がだよ。自分を《一般的な》弱者の立場に置いてるなんて事自体がかなりすごい。というか、マズイ。
結果的に弟子を持つことなく、唐沢俊一氏とともに後進へのイジリがすさまじかった、あの岡田さんが、「キラが弱者たちにとって神になった云々」というのには、かなり引いた。
岡田氏がサブカルとか他人の作品に全面的に依拠するときはかなり弱っている場合が多いのだけれども、「オタク イズ デッド」第三部での感極まり方などを見ると、ちょっと回避不能点まで岡田さんが弱っていそうで怖い。そうじゃなきゃ犯罪被害者とかいった弱者に同情しないのが、岡田さんのスタイルでしょ。
加えてデスノートへの岡田感想に感じたのは、自宅に放射能待避シェルターを持っている岡田氏はハルマゲドンや神による新世界新生に対する願望が強かったけど、それがまた出てきちゃったのかな?と言う気もした。
もちろん、オタク全般に世界破壊願望が強いのはあるわけだが、ノストラダムスを笑い飛ばし、エヴァを笑い飛ばした岡田氏が、キラという黒い救世主による世界救済を、いまさら希求してどうするんだ(笑)
あのデスノート解釈は、面白いしオーソドックスだけれども、もっと構造的に踏み込まないと時代性みたいなものもすくいきれないと言う点でちょっと食い足りない感じがした。なんか絵面に描いているのをそのまま書いたような薄さがあった。
特に「松田」は弱い人間と書いているけれど、最終回に至る三話で書かれた松田は、如実な成長をしていて、まったく弱い人間ではなく、成長している訳だし(これは次の段落で説明)
う〜ん、ようやくオタク第2世代が、それこそ、今回のオタクイベントのタイトルの元ネタとなった「テヅカ・イズ・デッド」の伊藤剛氏を初めとして追い着きつつあるのに、肝心の岡田氏からこういった弱気発言をされるとちょっと気が萎えるな。
夜神月を「神になったと祈る」構造が、かつて自身がエヴァ祭りや薬剤エイズ事件が終わった後に、日常に回帰できずに以降のセカイ系・運動にはまっていく若い世代を批判したまさにその姿と相似である点に気が付いていない時点で、かなりまずいなぁと思う。
オタキングが、キラを崇拝したら、キラがオタク神になっちゃうなぁとコーラを飲みながら思った。
【参考】
http://putikuri.way-nifty.com/blog/2006/05/post_78fa.html
http://d.hatena.ne.jp/kasindou/20060524#p1
http://d.hatena.ne.jp/kasindou/20060527
http://d.hatena.ne.jp/zozo_mix/20060527#1148745190

DEATH NOTEと脱・正義論(前篇)

なんか岡田斗司夫氏とからめたら変な前置きになってしまった。
デスノートが優れた漫画であるということを述べる点については、岡田氏に対する異論はないものの、解釈に置いて岡田氏さんとは結構、意見を異にする。
すべてを書くスペースがない最終回という点で、個人的に興味深かったのは以下の三つだった。
ひとつは「松田の成長」。二つめは「ニアの日常への回帰」。そして三番目は「祭りから日常へ回帰できないキラ教団」についてだ。
前から個人的に興味を持っている問題として、「教育と継承」というのがあるとはよく書いているのだけれども、同様に「日常への回帰」というビルドゥングスロマンの決着として非常に興味がある。今回はこの三つの興味深い点についてメモ書きをすると同時に、「教育と継承」「日常への回帰」というテーマについてちょっと書いてみたいと思う。
ここに書くのは個人的な感想でしかないが、小林よしのりの脱・正義論に微妙に重なってくるのが不思議だ。まぁこんな感じ方をするのは俺だけだとも思うけど。

◆松田の成長

逆転・逆転を重ねるDEATH NOTEのストーリーには、ある種の法則がある。それは「後出しじゃんけんの法則」とでも言えばいいだろうか。敵を引っかける罠を<先に>解説した方が、<後から>それを越える罠を仕掛けた相手方に負けるという法則だ。
こうしたどんでん返しの多いストーリーでは必然的にそうなってしまうわけだが、ここで非常に興味深いのは、DEATH NOTEという作品の中において、もっとも最後に「罠」の説明と解説を行ったのが、日本側捜査陣の中において、もっともバカで人がよいと思われていた松田刑事だという点が非常に象徴的で面白い。
松田は登場当初から、熱血漢ではあるものの熱意は常に空回りし、またもっとも夜神月の道具としてももっとも使いやすく扱われていたキャラクターだ。月が画策する、キラ社会の良さについても一番看過されてしまったのも松田だった。
ストーリー当初から、月がキラであることを知った松田がどう動くのかというのは、ネットを中心にして話題となっていた。最終的には、松田はニアの名をデスノートの切れ端に書こうとしていた月を銃で撃ち、重傷を負わせるのみならず月を殺そうとまでするのを、仲間にかろうじて止められるというシチュエーションを演じる。
そうした感情で動くバカで直情的だった松田刑事が、最後の最後のネタ証し――この松田の推理が正しいかどうかは分からないが、DEATH NOTEにおいては、「後出しじゃんけんが常に勝つ」ということを念頭においてみると、松田の願望というだけではなく、真実なんじゃないかなという気はする。
そうした卓越した推理を出すという成長をしながら、同僚からその推理の根底にあるのは、「願望」である点を指摘される。
今までは、松田の考えというのは、ただひたすらに同僚たちから否定されるだけであったのが、ここに至ってはじめて同格の刑事として、伊出から批評されるというシチュエーションが新鮮だ。また「月=キラであることを知りつつも、現在の社会とキラ社会を天秤にかける自分は歪んでいる」という客観的な視点を得たという点も松田の成長を如実に現している。
伊出が「あの時、キラが勝っていたら俺たちは生きていない」という、ある意味で、松田の問いに対して正面から答えていない答えについて、最初は暗い表情で返しながらも、最後に明るく「そうっすね」と返すシーン(←辛い体験であったも、それが松田の美点である明るさと前向きさを失っていないことを示す)、そして松田にも後輩が出来たシーンが描出されるなど、最終回はかなり《松田の成長》ということを表現するのに力点が置かれていたことが非常に面白かった。
だから岡田氏の言う「松田のような弱い人間には云々」というのはちょっと的はずれのような気がした。だったら松田は月を撃たないよ。
松田はね、馬鹿だしどうしようもないけれど、このラスト三話で大きく成長した松田を単なる「弱い人間」としてしか読み取れなくなっている岡田さんはかなり読解力が落ちている気がする。大丈夫だろうか?

◆ニアの日常への回帰

◆祭りから日常へ回帰できないキラ教団

は時間がないので又今度。