『おおきく振りかぶって』8巻に見るひぐちアサの暗黒面。それが今後、どう描かれるのかが楽しみ

雨宮まみ氏が自身のサイトで述べているが、ひぐちアサという漫画家は、『おおきく振りかぶって』しか読んでいない人には判らないけれど、実はかなりダークサイドを持った漫画家である。
おおきく振りかぶって - 雨宮まみの「弟よ!」
特に8巻では、そのダークサイドが壁の向こう側からそっと顔をのぞかせているようであり、乙木としてはココがたまらない。
画像は内容とは全然関係ないが、篠崎愛ってことで。

花井(192P)
「中学で会っていたらオレァ間違いなくイジメ側に入ってたなー
「よかった 出会いが高校で」

仲沢呂佳(216P)
「いよう 負け犬」
仲沢利央
「う……兄ちゃん 帰ってたの」
仲沢呂佳
「洗濯モン とりにきたんだよ 負け犬」
仲沢利央
「ちょっとお」
仲沢呂佳
「なんだよ 負け犬」
仲沢利央
「その呼び方 やめてよォ みんな がんば……っ」
仲沢呂佳
「甘えたこと言ってんじゃないよ?
「そんな根性だから オマエは美丞に 誘わなかったんだよ!
「こんなんが レギュラー候補じゃ 来年も桐青は 初戦負け だな!!」

なんでもないセリフの応酬の中に、過去の傷をドロドロと交えて描くのがひぐちアサの真骨頂。この二つのシーンなんて普通に読めば流せちゃうけど、個人的には「ひぐちのダークサイドが出てきたぞ!」とむちゃくちゃ楽しく読んだ。
じゃあ、ひぐちアサの持っている暗黒面って何かって言うと、それは一言で言えば
平易な言葉で人間の挫折と絶望を書くのに長けている点
と言えるのかもしれない。そしてひぐちアサの「絶望」がどこにあるかというと、
個人の才能には限界がある。その限界という挫折に遭遇した時に人はどう振る舞うか?
というテーマに心引かれる作家なのである。
ここが思いっきり口を開けた時、ひぐちアサのダークサイドのテーマが全開になってぞくぞくするほど面白いのである。『おおきく振りかぶって』のキャラクターの中にも、「才能の限界という絶望」テーマを滲ませているキャラクターが何人も配置されている。
だから乙木にとっては、『おおきく振りかぶって』って癒される漫画・三橋の回復の物語というだけではなくて、
少年がいつか成長の果てに訪れる自身の限界を知るストーリー
として読み込んでいる比率の方が大きい。
一番判りやすいのが、キャプテン・花井と4番バッター田島の関係であり、もう一つはややジェンダー的な視点も含みつつ「なぜモモカンはここまで高校野球に献身するのか」っていうところである。個人的には中沢呂佳・利央兄弟の確執なんかがもう萌え萌えであるけれども。
ちなみにこのテーマを恋愛とからめて語ったのが、あの名作『ヤサシイワタシ』である。
簡単に粗筋を記すと以下の通り。

ヤサシイワタシ 粗筋
かつてテニスプレイヤーを目指しながらも、怪我で挫折した芹生弘隆(せりう ひろたか)は、無為にすごした大学1年生を取り戻すべく、2年生になってから写真部に入部する。そこで写真部の問題児である唐須弥恵(からす やえ)と知り合い、その失敗を庇ったことから、好意を寄せられて付き合うことになる。
しかし、付き合ってみると弥恵は「男にだらしない」「人をあざ笑う毒舌」「謙虚さのない知ったかぶり」といった欠点を山のように抱えたイタイ女であることが判ってくる。
可能な限り弥恵を救おうとしてきた弘隆であったが、自身を見返ることのなく自信過剰で身勝手な弥恵に付き合うことの限界を感じて別れ、彼女を救えなかったことの自責の念に悩まされる

明らかに女性ならではともいえる欠陥を持っていて、そのために男子の騎士道精神や庇護精神を刺激するタイプなのだけれども、そこに心を許すと際限なく浸食してくる。
この大学サークル内における人間の挙動が非常にリアルに書けているところが、ひぐちアサの人間観察の鋭いところであり、ある種、文化系サークルによくあるドロドロの恋愛交差点を極限まで書ききったところが面白い。
ストーリーとしては、第二部では別の女性にスポットが当たり始めるのだけれども、なんといっても圧巻はこの「イヤな女」との付き合いと破局を極限まで描ききった第一部である。
いくつか指摘があるけれども、大学サークルにおける「天然系」のサークルクラッシャーの典型的なパターンを小説・コミックに探した場合、どのキャラクターになるかというと、それはこの唐須弥恵になるのは間違いない。
当初ははてなキーワードにおけるサークルクラッシャーの典型例として『ヤサシイワタシ』を俺も登録しておいたのだけれども、削除されてしまった。「サークルが崩壊していないじゃないか」というのがその削除理由らしいけど、それは本当に馬鹿な指摘で、弥恵が所属する写真部がもっとも崩壊の危機にさらされたのは、主人公・弘隆が写真部に所属する1年前であったことは、ストーリーをよく読み込めば自明なことだ。
結局、女性キャラクターの多かったこの写真部は、男女のサークル内交際等に関するリテラシーが高かったこともあり、弥恵を「問題児」としてレッテル貼りをすることによって、サークル崩壊の瀬戸際を押しとどめたことは精読すればわかる。
だからこそ、2年生になって弘隆が加入するまで、弥恵は「付き合ってはいけない女」「サークルの問題児」としてサークル内で差別されていたのである。
この漫画は法政大学文学部心理学科に在籍し、漫画研究会に所属していたひぐちアサが、そのサークルでの実話を反映して作られた作品であるという。
さもありなん、サークル内恋愛事情としては典型的ではあるが、漫画として描かれた例がほとんどない弥恵というキャラクターは実モデルとして体験した上で、ひぐちの様に心理学に対する素養がある程度ないと描ききれなかったと思われる性格の女子である。

◆写真部の中でミソッカス扱いされるほど技術が低いのに、他の部員をバカにしてプロを目指している所作
◆弘隆というステディがいながら、前の男と切れることが出来ない身持ちのだらしなさ
◆イジメを受けた体験を聞きたくもない他人に語り、イジメを受けたから自分は強くなったというイジメ必要論を説くいやらしさ
◆理想の男性のロールモデルが、明らかに駄目な男である父親という歪んだ男性観

作者自身が、大学生活での経験を読者へ伝えようとして『ヤサシイワタシ』を描いたことは、二巻の巻末に述べられている。
確かに著者自身が経験した体験でないとこの漫画は描けない。普通、一人で漫画を描こうと思っている人間には会得し得ないリアリティと、最後になっても真実は判らずに霧の彼方へ消えてしまうような弥恵の謎は、体験者のみが語れる重さと倦怠感に満ちている。
とりわけ、『ヤサシイワタシ』の中において、ひぐちがヒロインである弥恵の性格における最悪の部分として描いているのが、
「自身の才能の限界すら客観視できず、全能感をもったままの幼児性」
であり、コレについてはひぐちアサはこれ以上ない冷たい視線で、弥恵を描ききっている。こうした冷たい視線の性向は極めて強いモノらしく、それがスポーツモノというジャンルにおいてどう描かれるのかというのが楽しみ。一般的に体育会系の方が、文化系よりも幼少時に「自身の才能の限界」に突き当たりやすいワケで。それをひぐちがどのようにヴァリエーション豊かに描くのかというのが興味深いなぁと思っている次第である。
さて、ひぐちは挫折を描くのが非常に好きだけれども、その回復を描くのも得手としている。『ヤサシワタシ』も後半に至っては、弥恵に傷つけられた弘隆とサークルの人々の回復の物語になっている。「おおきく振りかぶって」の場合は、その回復の部分を丁寧に描こうとしており、見かけ上のビルドゥングス・ロマンとバディ・ストーリー的な構造をとりつつ、三橋・阿部の人間性獲得物語として描かれている。
でも、個人的には田島・花井ペアとか中沢兄弟のストーリーの方が、脇役である分、情け容赦なくひぐちアサが描写してくれそうで、メインストーリーには載せられない想像もつかない驚きが待っていそうで楽しみなのである。

ヤサシイワタシ(1) (アフタヌーンKC)

ヤサシイワタシ(1) (アフタヌーンKC)

ヤサシイワタシ(2)<完> (アフタヌーンKC)

ヤサシイワタシ(2)<完> (アフタヌーンKC)


ともかく『ヤサシイワタシ』を読んだことのない、『おおきく振りかぶって』ファンは必読ということで。