東京異聞(とうけいいぶん)−トウケイという読み方

詳しくまとめた資料をようやく見つけたので、それを簡便にまとめてみる。
◆東京がトウケイと読まれる場合があったのは明治初年〜明治二十年くらいまで
東京への「事実上の遷都」に関しては、下記のサイトが詳しい。ようするに法令上において東京というのが日本の首都であるという記述は法令上は存在せず、また「東京」の読み方として「トウケイ」「トウキョウ」という根拠になるような法令も当時はなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC
◆「キョウ」は呉音読みで、「ケイ」は漢音読み
漢字の音読みには、古代中国の揚子江下流の呉から伝来した読み方「呉音読み」と、唐代の長安に伝来した「漢音読み」の種類がある。

  • 呉音読み(例:「行」=ギョウ)は、仏教を通じて伝わり、僧侶により用いられることが多かった。
  • 漢音読み(例:「行」=コウ)は、遣唐使・留学生により伝わり、主に官府や儒教系の学者が用いた。

東方の都という意味で、遷都前にも「東京」という語彙は存在したが、学問の系統によって仏教系はトウケイ、儒学漢学系はトウキョウと読んでいた。
◆振り仮名で分ける、小説家の使用法

  • トウキョウ読みを用いた小説家

坪内逍遙末広鉄腸は、自身の小説の「東京」にトウキョウと振り仮名を振っていた。

  • トウケイ読みを用いた小説家・書類

仮名垣魯文二葉亭四迷・山田美妙、饗庭篁村は、自分の小説内の「東京」にトウケイと振り仮名を振っていた。→饗庭篁村は、幸田露伴なども参加していた根岸派の重鎮となる。その意味で、幸田露伴及び、南新二などはトウケイと言っていたとの推測もある。
また明治四年の築地外国人居住地の地券(まぁビザみたいなもの)には、TOKEIとシルされていた【明治十六年にはTOKIOと表記が改められる】
◆旧幕臣は、トウケイと読んでいた。
江戸の旧幕府の家臣は、上方的なトウキョウという読み方を嫌い、トウケイと読んでいたと、江戸風俗考証学者・三田村鳶魚は著作に書いている。三田村鳶魚は江戸関係のテレビ番組を作るときに、必ず基礎資料として読まなければならない本を多数書いている。
◆トウケイの終り
明治三十年代に入って、国定教科書が登場した際、「東京」の振り仮名は「トーキョー」と統一的に表記された。これによってトウケイという読み方は表舞台から消える。

資料は国立公文書館平成15年発行のリファレンスマニュアル「リファレンスの杜」より。