<span style="font-size:xx-small;">[読書][アニメ][文系文化]</span><span style="font-size:medium;">和月伸宏論(第二講):正しくありたくて不幸の原因と自分探しをしてた90年代「るろうに剣心」&「エヴァ」解題</span>

仕事が忙しくってねー。もー四日も家に帰ってねぇよ! なんで俺はこんなにスタジオにこもらなきゃいけないだ、くそ、書いても書いても和月伸宏論は終わらねー。
国会図書館に行って、90年後半のジャンプ黄金時代後期の検証をしないと、集英社に置ける和月伸宏の立場を説得力を持って説明できないんだけど。うーむ、困った。
だから中編ということではなく、第二講にしてみました。ごめんなさい!
[読書][アニメ][文系文化]和月伸宏論(前篇):90年代キーワード「不殺」と「新世紀エヴァンゲリオン」「るろうに剣心」の符合 - さて次の企画は

[読書][アニメ][文系文化]和月伸宏論インターミッション:《月刊》少年エースは、本来は週刊化して《週刊》少年エースになるはずだった - さて次の企画はの続きー!

◆誰もが「究極の理由」を追い求め、心理学で自分を「漂白」した90年代

90年代というのを振り返ってみると、それは「自意識過剰な時代」と言うことができるだろう。それは「絶対的に自身が正しくあろうする」病といってもいいかもしれない。その病が社会的に顕在化すると同時に、その理想の実現は困難だねということが、少なくとも頭の良い人間には判っちゃった時でもある。
ソ連赴任が長かった外交官の本を読んで、面白いなと思ったことがある。マルクス主義の良い点・悪い点は色々あるけれど、その悪弊の一つに「世の中が良くならない究極の理由を一つに還元しようとすること」だという指摘だった。もっともこれはカール・マルクスがユダヤ系であることも影響を与えてるのかもしれない。「究極の一つの答え」を追い求めちゃうのはユダヤ民族の宿痾みたいなところがある。もっともそれによって発見された科学理論は、相対性理論も含めて数多いから悪いことじゃない(アインシュタインもユダヤ系)。
「世の中が悪い究極の理由を一つに還元しようとする」と、「世の中を単純化し過ぎ」て、「自分は悪い側じゃないと語り続け」なければならなくなってしまう。最大の社会悪の原因だと思われていた「冷戦構造」は終わった。でも世の中は大してよくならない。ずっとつづくと思われていた「右肩あがりの経済成長」も崩壊した。これから先が見えなくなった。
バブルが崩壊した90年代初期から00年までの「分かりやすい悪者探し」に社会が奔走した時代って、安保や公害問題以降は、久方ぶりだったような気がする。すき好んで自分を「悪い側」におきたがる人間がいない以上、「自分は悪くない」=「漂白」と言っていいぐらい「自分語り」をしなきゃいけなかったんじゃないだろうか?
あの時に心理学が提示した設定……とりわけ「トラウマ」「幼児期に受けた虐待」という設定ぐらい「自分の漂白に役立つ洗剤」はなかったんだと思う。だからこそ、「自己実現」しにくくなっている大きな理由は不況を含めた複雑で理解し難い社会要因というだけなのに、みんな躍起になって俗流心理学にハマって、「自分探し」をしていたのだからスゴイ時代だったよな。
まぁ「金があれば七難隠せる」という時代が終わったのだからしょうがないのだが。
さて、そこで「不殺」と「戦いを異様に忌避する主人公」だ。不況下での社会では積極策をとって前に出ることで、アイデンティティ確保=自己実現することが難しくなってしまう。
そういった環境下で自己実現するために「階段を下りていって最底辺を見つめ直し」「自分の無垢さをアピールする」ことが重要視されたのではないだろうか? ここが70年代や80年代とも違うタイプの主人公が生まれた理由の一端のような気がする。
主人公に内面的な複雑さがないと分析をしても意味がないので、主人公が泣くことができるぐらいの内面性をもったコミック・アニメから70年代と80年代の主人公をまとめてみよう。

◆70年代の主人公:外敵と戦い、勝利後に「なんでこんなことになったんだ」と泣く主人公
小池一夫系の原作シリーズ。平松伸二ドーベルマン刑事」「ブラックエンジェルズ」。宇宙戦艦ヤマトとか。
さすがに日本は敗戦しているから、「勝って敵を殲滅してバンザイ」とゆー、ハリウッド映画「ステルス」のような主人公は出にくい。
◆80年代主人公:ストレートではない性格・悲しい過去を持つ戦う主人公
ジャンプ黄金時代前期の「北斗の拳」「シティハンター」のように悲しい過去・傷を持っているけれど戦う主人公。あきらかに趣味チックな性格や変態性といった、70年代のストレートな主人公とは違う要素が入ってくる。

ところが、90年代になってくると、主人公の内面性がより一層大きくなっていく。これは「自分語り」=「情報量が増える」ということだけれども、情報量が増えれば増えるほど、リアリティを保障しつつ、主人公が正義のヒーローであることを主張するのが難しくなっていく。
ものすごく単純に考えれば、今までは設定として「主人公が正義である」が存在すれば、基本的には主人公の戦う理由は正当化された。その戦いで生じる被害も含めて。ところが、時代が進むにつれて、「主人公が正義である」ということに説得力を持って描いていかないと、「ストーリーのリアリティ保障」が出来なくなってくる。
特にストーリーが、「世界の存亡」……それも特に「リアリティを持った殲滅戦」……という領域に踏み込めば踏み込むほど、このリアリティの保障をするのが難しくなってくる。
このことを実感を持って伝えるには、まだ僕の考えがまとまっていないけど少し筒書いていってみよう。殲滅する側・される側の如何を問わず、「殲滅戦」ということを意識し出すと、そこからいきなりストーリーに「贖罪の意識」というのが発生する。
日本のアニメ・コミックといったポップカルチャーにおいて、「殲滅戦」に踏み込んだが故に、クリエイターとして階段を上ってしまった例の一人として、富野由悠季があげられるだろう(他にもいっぱい居る。あとでどうしても触れなきゃいけないのが「Hunter×Hunter」の富樫義博)。「皆殺しの富野」の異名が示すように、最後に正邪が逆転する「海のトリトン」からはじまり、「ザンボット3」「イデオン」(ひょっとすると「ダイターン3」も)と、まさに「血で酔った感」満載で、「殲滅」ストーリーを書き続けた。
これは、僕もコンテンツ作りに関わっている経験から書くのだけれども、「殲滅戦」間際の状態を描くと、クリエイターもそれに登場するキャラクターも何か変調をきたすような気がする。
これは今年になってからずっと考えているオーソン・スコット・カードの「エンダーのゲーム」命題*1にも関わってくる。富野由悠季が、85年に「機動戦士Ζガンダム」という90年代を予感したかのような作品を作ってしまったのも、実は人並み以上に「殲滅戦」を書きすぎてしまったが故に、時代の先を見過ぎちゃったのかなーと個人的には考えている。
秋山瑞人も、停滞を抜け出すためには「イージーコンバットファイナル」を書いた方が近道だよ……というのは僕のアドバイス。
おっと話題がそれた。
そう考えていくと、「るろうに剣心」と「新世紀エヴァンゲリオン」には、色んな意味で時代性が付着しているのが判らないだろうか?

剣心とシンジが共有するシンボル

  1. 90年代的な正義を保障するために「不殺」「戦わない」主人公
  2. 巨大なトラウマを負っているからこそ、主人公は正義だ

「るろうに」「エヴァ」が共有しているもっとも強いシンボルが、この二つだ。
これこそが90年代的な少年モノの主人公の正義の証しだったのだ。
だからこそ、「るろうに剣心」は「不殺」を貫き、碇シンジは最後まで戦うことを拒否していたのだ。
後で触れるのだけれども、じゃあ、誰が戦うんだという疑問が出てくるだろう。どうしたって存在自体が正義である戦闘者がいないと、ストーリーライン作り−特にスタートが非常に困難になる。
決まってる、女の子だ。それも聖処女にして母であるバトルヒロインだ。まずストーリースタート時にバトルヒロインが前面において戦い、その後ろから男性主人公が現れるから正義が保障されるのだ
るろうに剣心」「新世紀エヴァンゲリオン」の第一話比較はここではやらないけど、実は二つには似ている部分が多い。
これが「るろうに剣心」と「エヴァンゲリオン」、そして多分、後になって言及しなければならない「幽遊白書」「Hunter×Hunter」の富樫義博を繋ぐ、90年代に発生したもう一つの巨大な事件である「セーラームーン・ショック」の影響だ。……でも面倒くさいからちょっと待っていてね。

◆「るろうに剣心」と「エヴァンゲリオン」の90年代的共通点のまとめ

さて、思った以上にページを割いてしまったが、「るろうに剣心」と「新世紀エヴァンゲリオン」の共通点をまとめてみよう。それを究極まで絞ると、以下の4つになる。ただ先回りして書いておくと、これほどまでに共通点を持ちながら、和月と庵野は一瞬のテーマ的邂逅を経た後に、それぞれのポジショニングから急速に乖離していく。どうしてそうなったかは第三講で書けると思う。……国会図書館に行けないから、90年代半ばのジャンプやコミック状況を解説するための資料が手もとにないんだよ……。

るろうに剣心」と「新世紀エヴァンゲリオン」の共通点*2

  1. 主人公が「不殺」「戦わない」ことで主人公側の善良さを保障しようとする
  2. 自分を生みだしたモノと時代に対する「殲滅戦」
  3. 絶対に勝てない父・師匠・天災の存在によるビルドゥングスロマンの否定
  4. 連れあい、パートナー獲得の困難さ(「セーラームーン」の影響力。コールドヒロイン&ヒロイン惨殺シミュレート)

↑ただし3番目に対する対処の違いが「京都篇」「TV版26話→映画版」で決定的に分かれ、二つの作品を乖離させた。

1番目の理由は、前半に延々と書いてきたが、まぁ90年代の状況を理解すれば、わかりやすいのではないだろうか?
2番目は「デビルマン」のテーマを想起してもらえれば、「るろうに剣心」と「エヴァンゲリオン」を接続できるだろう。これは「デビルマン」テーマの従兄弟ぐらいの位置にある。
正義を為すに悪の勢力の力を借りる。だがそれ故に旧コミュニティから断絶させられ、結果的に「殲滅戦」として旧来のコミュニティを滅ぼし、贖罪意識を負う主人公だ。
るろうに剣心」の場合は、殲滅させる相手とは、タイムスケール的な敵、すなわち「江戸時代人」といってもいい。自身が武士であり最強の剣術を身につけつつも、自身が生まれてきた「江戸時代性」を、過去の恋人である雪代巴と共に自分が滅ぼしたというのが、剣心のトラウマになっている。
エヴァンゲリオン」と「デビルマン」の類似性については、野火ノビタの「大人は判ってくれない野火ノビタ評論集成」が詳しいので、そっちを読んでもらいたい。
3番目の理由を書く前にちょっと横道に。
これは個人的な考えなのだが、少年向けのビルドゥングスロマンを構築する要素は、簡単に書けば以下の二つなのではないかと僕は思っている。

少年向けビルドゥングスロマンの要素

  1. 父、もしくは父的存在の超克
  2. 自分の家庭(含む故郷)の再構築≒連れあいの獲得

原意からわかる通り、少年向けのビルドゥングスロマンが成長譚である以上、それは世代交代を意味し、戦う相手は父性的な存在となってしまうことが多い。
それは敵が「魔王」「悪魔」や「天災」であっても同じだ。「魔王」というEvilは、先代の王=父が駆逐できなかった影であり、それすなわち「父」や「先代の社会」が持つ、Evilな側面だからだ。主人公が克服するのが、「天災」であったとしても、旧・社会が耐えきれなかった「天災」を克服することは、新・社会が前・社会よりも優れていることを示す証左となる。
主人公は、父性存在を倒すが、倒すことによってより力を得た「新しく強い父」になることが出来るのだ。逆説的だが、父を倒すことによって、父の紡いできた伝統をあらたに紡ぐことになる。そしてそのために同時に連れあい=ヒロインを獲得するわけだ。
けれど、これまた不思議な相似を示すのだが、「るろうに剣心」「エヴァンゲリオン」では、ともに主人公が絶対に勝てない「父」「師匠」もう一つ強調するなら「天災」が現れる。
面白いでしょ……。90年前半には主人公が絶対克服できない「天災」が、現実世界では三つも発生していることに刮目して欲しい。現実世界で起きた天災とは何か?
それは「湾岸戦争」「バブル崩壊」「阪神淡路大震災だ。
そして克服されるべく「人工的に作られた人工ハルマゲドン」=「オウム事件が発生していることに注目して欲しい。
るろうに剣心」では、克服できない「天災」として描かれるのは「明治維新」だ。そして克服できない父が、比古清十郎である。剣心と師匠である比古は、最終的に和解するが、結局、正統継承者は剣心ではないし、王統は継承されることなく伝統は喪われる。こんなことはなかなか少年マンガでは起こりにくい……というか、かなり異常な作品だ。何度となく指摘しておくが、和月にとっては、きわめて少年マンガとして書かれている「るろうに剣心」の「京都篇」の方が、イレギュラーであることは忘れてはならない。和月もインタビュー、後書きで何度となく述べているが、本来的には「人誅篇」の方が、和月のカラーなのだ。もし「京都篇」がないままに「人誅篇」が書かれたのであれば、エヴァとの相似がより判るだろう。
エヴァンゲリオン」において、克服できない「天災」として描かれるのは、「セカンドインパクト」だ。克服できない父とは言うまでもなく、碇ゲンドウ。ゲンドウはシンジにとって絶対的な存在だが、ゲンドウにとっては、シンジは駒の一つでしかなく、「エンダーのゲーム」におけるエンダーの様に、シンジは偽情報が与えられるままに、殲滅戦に狩りだされる。正統な完結編である「映画版」では、シンジとゲンドウの和解は得られずに終わるが、TV版の最終話において「父にありがとう」という科白によって、ちょうど「剣心と比古の和解」と同じような形で、父子の和解が一旦は描かれていたことを忘れてはならない。
そうエヴァTV版最終回の「父にありがとう、母にさようなら、そして、全ての子供達におめでとう」とは、「エヴァンゲリオン」では描かれず、迷った末に和月が「るろうに剣心」最終話で描いたビルドゥングスロマンの残滓なのだ
本当に薄紙一枚で、「るろうに剣心」と「エヴァンゲリオン」は隣り合っていたのだ。
4番目の「連れあい、パートナー獲得の困難さ」については、どうしても欠かせない命題がある。それが「セーラームーン・ショック」だ。まったくもって変な話だが、この美少女戦士セーラームーンを持って、和月伸宏庵野秀明富樫義博が《公私ともに連結されてしまう》のだ。その重要性はまた後の講で述べる。
この「セーラームーン・ショック」は本当は別項を作って、論じてもイイくらいの巨大な命題だ。ただとりあえず、セーラームーンの影響力が、「るろうに剣心」「新世紀エヴァンゲリオン」に巨大な影を落としていることは傍証をいくつも上げなくても判ってもらえるだろうから、ちょっと省略して書く。セーラームーン=「主人公として成立するバトルヒロイン・ストーリー」の登場は、説得力ある少年向けビルドゥングスロマンに対して、決定的にダメージを与えてしまう。
これは陽の側面と陰の側面を持って、少年向けコンテンツに取り込まれることとなる。
まず陽の側面としては、「主人公と共闘するバトルヒロインが登場する」と言う点だ。これをストーリーラインとして取り込んでいかないと、セーラームーン以後のあらゆるストーリーは、説得力を持たなくなってしまう。とにかく主人公の側のヒロインは、戦えなくちゃ話にならない。
かたや陰の側面は、「バトルヒロインは徹底的に陵辱されなければならない」「恋愛の成立は困難を極める」という点だ。なぜか? そうしないと少年主人公は存在価値がなくなってしまうからだ。
セーラームーン登場以後に、美少女ゲームにおいて鬼畜モノが異様な数増えていったことに着目してほしい。国会で18禁ゲームが取り上げられてから、美少女ゲームは自主規制が厳しくなり、ほんわかファンタジーストーリーが多かったのだが、セーラームーン登場以後、いきなり鬼畜ゲームが増えてくる。
るろうに剣心」「エヴァンゲリオン」双方共に、最終的に主人公が結ばれることとなるパートナー、神谷薫とアスカ・ラングレーは、そのヒロイン自身も戦うことが出来るバトルヒロインだ。
だが、だからこそ、少年向けコンテンツにおいては、殺害を偽装され、徹底的に陵辱されることとなる。
和月は、自身のフリートークにおいて、エヴァ映画版において、アスカが陵辱されて殺害寸前にまで言ったことを、これ以上ない強い口調で非難している。けれどもその和月が描く「るろうに剣心」の「人誅篇」においては、神谷薫の殺害がシミュレートされ、過去ヒロインである雪代巴が殺害されている。
これは、薫が実は死んでないからOKという問題ではなくて、主人公とヒロインの力関係、男性優位を要求する男性向けコンテンツにおいて、避けられない表現であり、和月自身が描こうとしているモノに極めて近い場所に、エヴァンゲリオンが着地してきた故の同族嫌悪であると理解するのが正しいだろう。

【追加年表】
94年(19号) るろうに剣心 連載開始
95年 2月 トライガン 読切版掲載
95年 4月 トライガン 連載開始
95年10月 エヴァンゲリオン放映開始
↑リンク元からデータがあったので、コレも追加。
なるほど、トライガンの読み切り・連載の方がエヴァンゲリオン放映よりも早かったのか。
これは、「不殺」の主人公といった形で同時代性を持っていたと言った方が良いですね。

あー書いても書いても終わらない。
とりあえず第二講はここまで。
さて……こう書いてくると、和月伸宏庵野秀明を対談させてたくなってくるでしょ(笑)。

僕は対談を組むのが無茶苦茶上手いことを自認しているんだけど、それは背後にこれだけの考察とデータを持っているから。……いや、お互いが地雷を踏みかねないような対談に必然的になるんで、えらく緊張するだけどね。
あまり踏み込まなかったけれど、富野由悠季が、先行する80年代にすでにバトルヒロインと、バトルヒロインの陵辱を書いている点は注目に値する。……何で富野由悠季にそれほどまでの先進性があったかというと、それは「だから僕は…―ガンダムへの道 (角川スニーカー文庫)」で描かれている、チョキさんとの関係があったからこそだとは思うんだけど、これまた面倒くさいので、今度に回す。


ああああああぁ眠い! とりあえず仕事が次に進みそうでビジーウェイトが終わる感じになってきたので、今回はコレまで。
また三日ほど待ってください。
誤字脱字の指摘は感謝。もー眠くて眠くて、多分、誤字だらけの気がする。
大人は判ってくれない―野火ノビタ批評集成
だから僕は…―ガンダムへの道 (角川スニーカー文庫)
エンダーの子どもたち〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)
トライガン #1

*1:最近、乙木がずっとこだわっている問題。30代前半に位置するオタク第2世代の若い方が、ことごとくエンダーのゲームに衝撃を受けていて、それが「セカイ系」的な作品を書かせる一つの要因ともなっている

*2:いったん、これがテンプレートとして存在するようになると、似たような作品は次々と現れてくる。例えば「トライガン」も同じテンプレートパターンに則っている。追記:トライガンもエヴァより早く読切版・連載版が世に出ている。これは同時代性を持っていたと言うべきですね