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永井豪が、エスパー魔美について思うこと

文系文化

 高畑さんは非モテどころか、小賢しいSF少年にとって「唯一実現可能な《モテ》のロールモデルだと思うんだが、このあたりはまた今度書くことにして、永井豪が「藤子・F・不二雄大全集 エスパー魔美」第4巻の巻末に寄せた解説が色々と示唆の深いものだったので、ちょっと引用する。

藤子・F・不二雄大全集 エスパー魔美」第4巻
F先生とのファンタスティックメモリー
永井豪

エスパー魔美 4 (藤子・F・不二雄大全集)

エスパー魔美 4 (藤子・F・不二雄大全集)


(前略)
 (藤子・F・不二雄先生の)お人柄にすっかり魅了された私であったので、藤本先生の訃報が届いたときは、本当に辛く悲しかった。お亡くなりになってしばらくしてから、S社の編集者から『エスパー魔美』に関するこんな話が伝わってきた。
 当時のマンガ界は、私の『ハレンチ学園』がヒットした影響で、ハレンチ・マンガの人気が高くなり、多くのマンガ家が編集から、エロチックなマンガを描くように要求されたという。
 そうした風潮が、藤本先生にまでも及ぶこととなった。少年マンガに女の子の色気は描きたくない」と仰る先生に対して、編集サイドが強引に迫ったのだと聞いた。
 要求を受けてかどうか真意は判らないが、藤本先生が描いたのは、ヌードモデルをする少女、魔美だった。
 魔美のヌードは、とても可愛いが、色っぽさとは無縁の、清潔感あるサッパリしたものだ。その清潔感は、「子供達にエロチシズムを与えたくない」とお考えになった、藤本先生の決め事だったのだと思う。
 私は、性徴期にある子供達が異性に興味を抱くことは、ごく自然なことであり、エロスを感じることは必要、という考えで作品を描いてきた。しかし、私が少年マンガに持ち込んだエロチシズムが、藤本先生に辛い思いをさせたのでは? と思い、心が痛んだ。このことを、先生のご生前に知っていれば、謝れたのにと残念でならない。
 しかし、藤子・F・不二雄マンガの一ファンである私としては、“これで良かったのだ!”と思っている。何故なら、清潔感ある魔美のヌードを美しいと感じ、父親ためにヌードモデルをする魔美の健気さをいとしく思い、すべてをひっくるめた魔美のキャラクターが大好きだからだ。エスパー魔美』の魅力は、ヌードシーンにより倍増され、光り輝く傑作になったと考えている。
(後略)

 永井豪が後半で述べている、「『エスパー魔美』の魅力は、ヌードシーンにより倍増され、光り輝く傑作になった」というのにはまったく同意すると同時に、藤子・F・不二雄が語る少年マンガに女の子の色気は描きたくない」「子供達にエロチシズムを与えたくない」という考えもわかるので難しい。
 まぁ藤子・F・不二雄が愉しんで書いていなかったとはまったく思わないし、そうじゃなければドラえもんでのしずかちゃんのお風呂シーンなんて描かないよなとおもいつつも、こういうことを永井豪が思い悩んでいたということにはちょっと驚きがあった。
 永井豪が『ハレンチ学園』のせいでPTAから魔女裁判の如く扱われていたという事実の裏側で、出版社からはマンガ家にエロを描かせようという要望が発生し、それが藤子・F・不二雄にも及んでいたというのは知らなかったのでメモ。
 クリエイター側の創作意欲だけじゃなくて、1ジャンルが売れるとそれを後押ししてしまうエンジンとして、編集者や出版社があることに今以上に自覚的になろうと思った。
バトル・ロワイヤル」がホラー大賞選考委員から嫌われて落とされた後に、大ヒット。それに類する類書が数多く出てきたというのと微妙な符号がある。
個人的には、自分が子ども時代に読んでいたぐらいの性描写・暴力描写は一般流通OKだと思うのだけれども、それってたんなる個人のノスタルジーから来る判断基準でしかないだろうとも思うので、どうすりゃいいのかなぁと実務レベルで困っている感じ。
非実在有害図書 (内田樹の研究室)
については、珍しくも内田樹に、もうちょっと斜めから議論として練り込んだものを書いて欲しいなーと感じた。
 内田樹であるならば、

欧米において(とくにアメリカにおいて)「子ども」に賦与された基本的な社会的特性の第一は「狡猾さと攻撃性」であった。
トムとジェリー』に代表される「小動物による相対的に巨大な動物へのエンドレスの欺瞞と裏切り」説話はアメリカでは定番だが、わが国にはなかなか類するものが見あたらない(強いて探せば「かちかち山」だが、これは太宰治の卓抜な読解が教えるように、「少女の中年男への生理的嫌悪」と解釈する方がおさまりがいい)。
ホーム・アローン』というのもカルキン坊やの狡知と(ほとんど節度を失った)暴力性が印象的であった。
『キンダーガルテンもの』『保育所もの』というジャンルも存在するが、それらすべてに共通するのは、「度し難い悪童たちに、ひとのよい大人が振り回される」という話型であって、「無垢で純真な子どもたちが、邪悪な大人によって繰り返し損なわれ、傷つけられる」という話型はアメリカ映画では好まれない。
「児童虐待」という問題を考えるときには、当該社会において「児童」という社会的存在が「どのようなもの」として観念されているか、自分たちの社会における同一語をそのまま適用することを自制することがたいせつであるように私には思われた。
内田樹の04年11月のアーカイブから】

ってな感じで、海外との文化比較あたりから斬り込んで欲しかったけど、「表現の有害/無害論」「相関関係の有りや無しや」から書かれちゃったので、あまり新味がなかった。
今月の読書で、個人的なベストは小川一水の「天冥の標2」だったが、ベスト2で樋口毅宏の「日本のセックス」。相変わらず凄まじいまでのノワール描写に酔えます。

天冥の標 2 救世群 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標 2 救世群 (ハヤカワ文庫JA)


日本のセックス

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