第四回日本SF評論賞贈賞式で、パラレル・クリエーション的なものの今昔を考えた

1月31日に『第四回日本SF評論賞贈賞式』&『デビュー三〇周年・永遠のSF少年 星敬さんを励ます会』があったので参加してきました。あいにくの雨だったのですが、かなりの人数の参加者が集まり、会場がごった返していました。
来年から選考委員に瀬名秀明さんが参加される(!)という発表などもあって、情報遅い乙木としてはビックリしました。このあたり来年も楽しそうです。
その後、星敬さんを励ます会のスライド上映などがあり、パラレル・クリエーション時代の星さんと仲間たちなどが上映されていて、とても興味深かったです。その場になって気付いたのですが、星敬さんって常務取締役だったんだよね。

パラレル・クリエーションとは - はてなキーワード
SF作家、豊田有恒が若手クリエーター育成のために主宰した創作集団。「パラ・クリ」「パラクリ」と略して語られることが多い。事務所は下北沢のとあるマンションにあったという。1983年頃設立。1991年解散。
パラレル・クリエーション」は株式会社で、豊田有恒が社長、正式な参加者=社員であった。しかし社員でなくとも入り浸っているクリエーターが多かったらしい。
(後略)

星敬さんからは、ライトノベル完全読本を制作時に平井和正さんインタビューを取るときに色々とアドバイスをいただいたりなどして、乙木はとてもお世話になった。
パラレル・クリエーション当時の写真がスライド上映されていたので、ちょっと掲載してみる。出渕裕さんがすごい髭面だよ(問題ありましたら、すぐ取るので連絡下さい)。
「才能ある若手クリエイターが、自由なベンチャー企業的風土の中に集まって、プロとして活躍するようになる」という状況がどのようにして産まれるのかということに、非常に興味があって、昔のコマケンやらスタジオぬえやら、分かる範囲の話には色々おっかけていて、同じ領域に興味のあるSF作家の新城カズマさんと話すことが多い――新城カズマさんもPBMを運営していた遊演体を契機にデビューしている――。
でもパラレル・クリエーションについては、「日本SFアニメ創世記」に書かれていることぐらいのことしか知らなかったりするので、とても貴重な話だった。

日本SFアニメ創世記―虫プロ、そしてTBS漫画ルーム

日本SFアニメ創世記―虫プロ、そしてTBS漫画ルーム


まだまだ自分の中で情報不足なのだが、今回のパーティで、こういう「パラレル・クリエーション」的なるモノの今昔にちょっと思考がまとまってきた。
もっと調べなければならないのも多いし、逆に俺にとって詳しいのはパラレル・クリエーションが発展的な解消を遂げた90年代以降だったりするため、機会があったら星敬さんや豊田有恒さんにも聞いてみたいのだが、分かる範囲でこの「パラレル・クリエーション的なるモノの今昔」を書いてみる

■若手制作会社集団のパターン
1)親分肌のプロが、イベントや本屋であった面白い若手を集める
2)同時期にコンテンツを大量に必要とする、新興メディアの勃興があり、仕事を廻しきれなくなった親分が自分のところの若手に仕事を振る。
3)若手が集団的にデビューして、やがて独り立ちしていく

ではそれを年代別にまとめてみる。

■1950年代末から1970年代半ば:SF同人誌から中間小説誌隆盛の時代

宇宙塵(1957年)
SFマガジン(1959年)
NULL(1960年)
ネオ・ヌル(1974年)
日本最古のSF同人誌「宇宙塵」が開始されてから、若手クリエイターの集結地としては、同人誌などがもっとも機能していた時代。
大阪万博の開催や、新興メディアとしての中間小説誌が数多くあった。そこでSF短篇が求められていたのと同時に、高度経済成長の中で色々な企業誌が刊行されて、SFを執筆する場が増えていった印象。
SF同人誌で短篇が載って、SFマガジンでデビュー。その後、中間小説誌で短篇を書きながら長篇へって流れか。
2005年、06年の年賀葉書を担当した、切り絵画家の久保修さんと仕事したことがあるけれど、彼をデビューさせたのが小松左京さん。
久保修オフィシャルサイト
たしか小松左京マガジンの何号かにも載っていたかと思うのだけれども、なんか面白そうな若手が次々と関西テレビやら雑誌に流し込まれていった逸話の一つとして興味深い。

■1970年代半ばから1980年代前半:SFアニメへの若手の流入
クリスタルアート(1972年)→スタジオぬえ(1974年設立)
ゼネラルプロダクツ(1982年)→ガイナックス(1984年)
伸童舎(うわ、サイトが消えてるよ)
パラレル・クリエーション(1983年頃)
前の世代が、収益形態が新興メディアとして起こってきた中間小説誌であったのに対して、この世代だとTV業界からの収益が中心になってくる。そのため若手のSF小説家と同時に若手アニメーター、若手漫画家が、大学在学中から仕事し始めるようになったという雰囲気がある。
最初期は1967年の15歳ときの土曜日にタツノコプロダクションへ遊びに行ったら、その月曜日から就職しちゃった天野喜孝さん(無茶苦茶だ〈笑〉)や、『ゼロテスター』『宇宙戦艦ヤマト』のスタジオぬえ辺りだろう。でやがて『超時空要塞マクロス』へ繋がっていくわけだ。
あとはやっぱりTV業界繋がりというと、野田昌弘さんが『ひらけ!ポンキッキ』(1973年)の仕事を振ったり、『王立宇宙軍オネアミスの翼』の後ろ立てしたのが一番大きいか?
これは乙木の不勉強が主たる原因なんだけど、パラレル・クリエーションが少し俺からわかりにくかったのも、パラ・クリの活躍をあまりテレビで見なかったからかも知れない。

■1980年代後半から1990年代初頭:テーブルトークRPG制作会社
Syntax Error→グループSNE(1987年)
遊演体(1987年)
冒険企画局(1987年)
ファーイースト・アミューズメント・リサーチ(1993年)
ORG(サイトが分からない)
前世代がTV業界からの収益が主であったのに対して、この世代は収益の中心が新興メディアとして起こってきたゲームが中心となってくる。結果から言うと、生き残ってきた角川書店系が中心となる。そういった意味では今から振り返って見ると、数々の出版社倒産や撤退(大陸書房倒産、徳間インターメディアの撤退)とか、角川事件などからの影響が無茶苦茶大きかったのと、より一般性・収益性の大きかったコンシューマーゲーム業界へはあまり繋がっていかなかったため、結果的に個別のライトノベル作家となっていくというまとまりに終わった観がある。
そういう意味では、一般メディア露出が少なくなってしまったかもしれない。

■2000年代:専門学校の隆盛

色々と調べているのだけれども、この世代ではあまり中心的な親分肌の組織というのがなくなっている。
おそらく一番機能的に近くなってしまったのが「専門学校」と、「専門学校を母体にした作家の師弟制度」だろうか。でも専門学校の講師が、まだちょっと未熟な若手に仕事を振れるかというと、そんなことはないので辛いところだ。このあたり不思議なのは、大阪の専門学校やシナリオスクール出身の方が活躍している人が多いような気がする。
「美少女ゲーム」系の会社はどうなのだろうか? ちょっとこのあたりは寡聞にしてしらないのだが、ちょっと調べたいところ。



比較対象
■韓国IMF管理時代:韓国イラストレーターの隆盛
も書こうと思ったが、時間がないのでこれはまた近日中にでも。