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茂木健一郎はすでにトンデモ科学者化している!

文系文化

今まで乙木がずっと分からなかったことの一つに「茂木健一郎」ってのがいたんだけど、この間、ようやく自分の中で整理がついた。
今まで茂木健一郎と乙木との関わりというのは、せいぜいTV番組に登場するのを見るぐらいだったのだけれども、なんというか「いかがわしさ」が満載なので困っていた。
なんだろう、常日頃、科学者の話を聞いた時に感じる「自分の知らない科学分野の知に触れた」とかいうのではなくて、「なんかこれを理解したら、明らかに間違った領域に足を踏み込んでしまうんじゃないか??」といったようなエンターテインメントチックというか、変な感じのいかがわしい科学の衣をまとっているんだよね。たとえばそれはタキオン健康法とか、マイナスイオンやゲーム脳とかみたいな。
きっかけはサイエンスライターのSさんにお会いして、色々と話をうかがった時に茂木健一郎の話題をだしたことだ。

乙木「ところで、私は茂木健一郎さんの言ってるクオリアとかがよく分からないのですが、アレはいったいなんなんですか?(これも相当ひどい聞き方だ)」
Sさん「茂木さんの言ってることは、科学というより哲学だからなぁ。しかも結構、聞いたことあるようなことばっかりだし」

という会話があったので、ちょっと茂木さんの本をまとめ買いしてよんでみたんだよね。
そうすると、茂木健一郎はもう自分のことを「科学者」とはいわなくなって、「自然哲学者」とか言いはじめているんですな。
ちなみに乙木が茂木健一郎がトンデモであることを確信したのは、新著「思考の補助線」のこの言葉

クオリアの問題に目覚めた日は、私の人生における最大の祝福として今での脳裏に鮮明である。研究所からの帰り、夜。私は電車に乗っていた。無意識のうちにガタンゴトンという音を聴いていた。突然、その音が、周波数で解明しても、スペクトラムを眺めても決して解明しきれぬ生々しい「質感」として私の意識に到達していることに気がついた。私は感動と畏怖で青ざめた。車輌と車輌の連結部分の空気が一変した。その瞬間、私は、芸術を愛する経験的自然科学者から、現象学的経験をも視野に含めた「自然哲学者」へと変貌したのである。

奇跡キターー
茂木健一郎がトンデモに目覚めた瞬間である。以下、茂木健一郎
「科学では心の安寧は得られない」とか
「心理の女神のガウンの裾を掴んだ」とか
の宗教的な告白が続いたりする。
あー、アメリカ人が進化論をやっているウチに、懐疑的になってインテリジェントデザイン論にハマっちゃって、いきなりキリスト教原理主義に走る理系優等生の告白に似てるな。これじゃ。
スカウターで計ると利己的な遺伝子トンデモを描いている竹内久美子の「0.5」ぐらいのトンデモパワーだ。竹内久美子が人生の疑問をすべて利己的な遺伝子のせいにするように、茂木健一郎はなんかクオリアに人生の価値を託卵しているようなものなのかな?
茂木健一郎のTV出演を見ていて感じ、本を集中的に読んで確信したんだけど、茂木の言説に「語りうる価値」とか「有意義」とか「感動」とかの情動的な言葉がすごい頻出するのは、そういう訳か。
なるほどね、茂木健一郎は東大の理学部、法学部を出ながら、オウムに嵌ってしまったような村井秀夫のようなものかもしれない。結局、科学は価値を与えてくれるものではないからなぁ(工学的な発明によって人の生活が豊かになるとか分かりやすいのなら別だけど)。
なるほど、こう考えると、
エスパー研究所を持っていたソニーに茂木健一郎がいる
というのも分かりやすい。
スッキリした。つまり乙木のSF・科学脳の片隅に茂木健一郎をおかなくてもいい。
今後は茂木健一郎のプロフェッショナルでのトンデモ発言ゲーム脳ディレクトリに入れればいいのだ。
茂木健一郎の言説っていうのは、いかにも科学っぽいものを纏っているように見えるのだけれども、竹内久美子とか「ID論とか「ヤングアース論」「カルチュラル・スタディーズぐらいで捉えておけばいいのだろう。
これが小松左京の短篇集「ゴルディアスの結び目」のように美しい小説の一篇になっていればいいのだが、そうでなければ「火星は赤いから戦いの星」という譬喩となんら変わらん(爆笑)。
ここに至って……とかいいながら茂木健一郎の本を何冊も買ってしまったが……もはや茂木健一郎は乙木にとって無視してよい存在となった。
 あとは、いつの日にか山本弘さんのトンデモアンテナに茂木健一郎が引かかって、氏との直接対決を待つのみである。