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SIGHTの東浩紀さんに感じた違和感

memo

忙しくって、断片的にしか書く時間が取れないなぁ。あとからジリジリとオンラインで改訂してるし(笑)

SIGHT (サイト) 2007年 10月号 [雑誌]

SIGHT (サイト) 2007年 10月号 [雑誌]


なるほど、SF大会で聞いていたことが補足された感じであった。
SF大会のイベントで、東浩紀さんが

最近の日本の作家は、以前ほど海外SFを読んでいない&影響を受けていない

と発言していたのには、個人的に少し違和感があった。
というのも海外SFが日本の小説に、とりわけライトノベルに取り込まれていくのは10年近いタイムラグがある場合が多いからだ。
ライトノベル作家予備軍が海外SFを最も読む時期というのは、中学生から高校生の時期がもっとも多いからかもしれない。
例を挙げるならば、ウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」(86年邦訳)が日本語訳の発刊10年と同時に、冲方丁古橋秀之七尾あきらが出てきたわけだ。
その後、「エンダーのゲーム」(87年邦訳)「死者の代弁者」と続くオースン・スコット・カードに多大な影響を受けた秋山瑞人本田透が出てくるのも、やっぱり10年後なワケだ。で、作家じゃないけどやっぱりカードに関しては一家言あるというか、それを克服しようとする宇野常寛が出てきたのも大体そのぐらい(笑)。
そういう観点からすると、東さんが

サブカル論壇の言論がここ一〇年国際的パラダイムから切り離されていた

ということには、ちょっと違和感を提示しないわけにはいかない。
オーソン・スコット・カードを再読する - さて次の企画は
まぁ当初誰も予想しなかったのだけれども、「エンダーのゲーム」がその後、エヴァンゲリオンと結びついて十数年以上も日本の雰囲気を覆い尽くす《巨大な時代的な雰囲気》になるとは誰も予想していなかった。まさかカードがばらまいたウィルスが日本でこんなに隆盛を振るうとは思っていなかった。
米国発のカードと日本発のエヴァンゲリオン、この二つに罹患したがゆえに、結果的に海外SFの影響が見えにくくなっていたというあたりが真相ではないだろうか。
実際問題として、「エンダーのゲーム」に出てくるネット世論の操作と危うさというものは、その後の「2CH」「ネットでの祭り」等をも予言しているようであり、実に背筋が寒くなる怖さがある。そういった観点で、東浩紀さんが「エンダーのゲーム」を読んでいるかどうかはともかくとして、カードの射程距離を短く見積もりすぎているような気が、乙木にはするのだ。
近年よく出たモチーフ、「シンギュラリティ」を活かしたようなSFというのは、−−まぁシンギュラリティモノがそれほどの潮流なのかというと違う気もするし、むしろ今はミリタリSFなのかと思ったりもするが−−多分、日本では10年後ぐらいに出てくるのではないだろうか?
ここからは後段だが、次に日本発で海外に影響を与えると私が考えているのは、【非ビジュアルノベルである、本流としての】ゲームや、【非萌え絵として、技巧の極致を極めた】イラスト&コミックスではないかと乙木は推察している。まだ微々たるものであるし、大事に育てていかないと芽の段階で潰れちゃうのだけれども、確かにそういった潮流は存在する。
評論としての「ゼロ年代の想像力」他は、非常に翻訳しにくいモノだが、「ビジュアルイメージ」としての「ゼロ年代の想像力」は翻訳を越えて伝わるものだと思っていたりする。これはイコール「イラスト版ゼロ年代の想像力」ってのもあるんだってことでもあるが……。
このあたり、実物見せた方が分かりやすいのだろうけれども、まだ制作途中で見せにくいところが難点か。
もうさすがに自分がイラストレーターに詳しいとは、口が裂けても言えないけれど(苦笑)、ただ大きな潮流の中において、「セカイ系ラノベの隆盛」と「イラストレーターの主流が技巧派からの後退して、ロリコン絵・萌え絵が隆盛を迎えた」と繋がっていったことは同軸上にあったと考えた方が良い。
それゆえに

「ポスト・セカイ系」の決断主義として出てきた「DEATH NOTE」が、イラスト技巧派の極致としての小畑健の筆に依るものだった

という点は無視してはいけないと思う。
……というあたりで、「セカイ系という潮流が、イラスト的な頽廃・記号化とリンクしている」「アニメ化して高い画力での技巧を入れないと、ハルヒらき☆すたも一般化しにくかった」というあたりの論を、イラスト論から論じなきゃいけないのだけれども、これはまた次回以降で。