DEATH NOTEと脱・正義論(前篇)

なんか岡田斗司夫氏とからめたら変な前置きになってしまった。
デスノートが優れた漫画であるということを述べる点については、岡田氏に対する異論はないものの、解釈に置いて岡田氏さんとは結構、意見を異にする。
すべてを書くスペースがない最終回という点で、個人的に興味深かったのは以下の三つだった。
ひとつは「松田の成長」。二つめは「ニアの日常への回帰」。そして三番目は「祭りから日常へ回帰できないキラ教団」についてだ。
前から個人的に興味を持っている問題として、「教育と継承」というのがあるとはよく書いているのだけれども、同様に「日常への回帰」というビルドゥングスロマンの決着として非常に興味がある。今回はこの三つの興味深い点についてメモ書きをすると同時に、「教育と継承」「日常への回帰」というテーマについてちょっと書いてみたいと思う。
ここに書くのは個人的な感想でしかないが、小林よしのりの脱・正義論に微妙に重なってくるのが不思議だ。まぁこんな感じ方をするのは俺だけだとも思うけど。

◆松田の成長

逆転・逆転を重ねるDEATH NOTEのストーリーには、ある種の法則がある。それは「後出しじゃんけんの法則」とでも言えばいいだろうか。敵を引っかける罠を<先に>解説した方が、<後から>それを越える罠を仕掛けた相手方に負けるという法則だ。
こうしたどんでん返しの多いストーリーでは必然的にそうなってしまうわけだが、ここで非常に興味深いのは、DEATH NOTEという作品の中において、もっとも最後に「罠」の説明と解説を行ったのが、日本側捜査陣の中において、もっともバカで人がよいと思われていた松田刑事だという点が非常に象徴的で面白い。
松田は登場当初から、熱血漢ではあるものの熱意は常に空回りし、またもっとも夜神月の道具としてももっとも使いやすく扱われていたキャラクターだ。月が画策する、キラ社会の良さについても一番看過されてしまったのも松田だった。
ストーリー当初から、月がキラであることを知った松田がどう動くのかというのは、ネットを中心にして話題となっていた。最終的には、松田はニアの名をデスノートの切れ端に書こうとしていた月を銃で撃ち、重傷を負わせるのみならず月を殺そうとまでするのを、仲間にかろうじて止められるというシチュエーションを演じる。
そうした感情で動くバカで直情的だった松田刑事が、最後の最後のネタ証し――この松田の推理が正しいかどうかは分からないが、DEATH NOTEにおいては、「後出しじゃんけんが常に勝つ」ということを念頭においてみると、松田の願望というだけではなく、真実なんじゃないかなという気はする。
そうした卓越した推理を出すという成長をしながら、同僚からその推理の根底にあるのは、「願望」である点を指摘される。
今までは、松田の考えというのは、ただひたすらに同僚たちから否定されるだけであったのが、ここに至ってはじめて同格の刑事として、伊出から批評されるというシチュエーションが新鮮だ。また「月=キラであることを知りつつも、現在の社会とキラ社会を天秤にかける自分は歪んでいる」という客観的な視点を得たという点も松田の成長を如実に現している。
伊出が「あの時、キラが勝っていたら俺たちは生きていない」という、ある意味で、松田の問いに対して正面から答えていない答えについて、最初は暗い表情で返しながらも、最後に明るく「そうっすね」と返すシーン(←辛い体験であったも、それが松田の美点である明るさと前向きさを失っていないことを示す)、そして松田にも後輩が出来たシーンが描出されるなど、最終回はかなり《松田の成長》ということを表現するのに力点が置かれていたことが非常に面白かった。
だから岡田氏の言う「松田のような弱い人間には云々」というのはちょっと的はずれのような気がした。だったら松田は月を撃たないよ。
松田はね、馬鹿だしどうしようもないけれど、このラスト三話で大きく成長した松田を単なる「弱い人間」としてしか読み取れなくなっている岡田さんはかなり読解力が落ちている気がする。大丈夫だろうか?

◆ニアの日常への回帰

◆祭りから日常へ回帰できないキラ教団

は時間がないので又今度。