「DEATH NOTE」最終回直前と「武装錬金」最終巻にみる、少年向けビルドゥングスロマンの現在

とにもかくにも、ぶっ通しで忙しいままにトラブルシューティングをしているので、和月伸宏論を書けないままにきてしまっている。たださすがに今週のジャンプを見ると、当初考えていた俺のDEATH NOTEの第二部最終回予想とかなり重なっていたので、ここはメモ書きでも一発、書かなきゃいけない。ちょっと覚え書きで少年向けビルドゥングスロマンの現在に関する私論をちょっと書いてみる。
以前も書いたが、教養小説ビルドゥングスロマンの条件をざっくり書くと以下のようになる。

教養小説ビルドゥングスロマンの定義
未熟な人間が冒険を経た上で、大人へと成長していく過程を描く。
そのストーリー中で主人公が体験・獲得するのは以下のものである。
(1)父親の超克
父親が成し遂げられなかった偉業を達成する。父親は必ずしも実父である必要はなく、「師匠」である場合もあれば、「父の世代が倒せなかった悪」としての「魔王」である場合もある。この「父の世代が倒せなかった悪」というモチーフはわりと解釈が多様で、「倒す」場合もあれば、「小さな悪は倒さず共存する道を見出す」場合もある(ま、シルバー船長とかね)。
(2)相方・恋人の獲得
これは第一条件とは裏表でもある。つまり自分が父親化して、社会を構成する最小単位である家族をなすようになることを意味する。その時期をもって自身の能力のある種の限界点を作り出し、そこを上限として子供=自分を越えるであろう次世代を作ることを意味する。ある意味で第三条件とも重なる。
(3)日常への帰還or冒険の日常化(≒新世界の開拓)
ファンタジー的にいうのであれば、「行きて帰りし物語」の帰って行く部分。ただこれは必須ではなくて、故郷に帰ることなく冒険それ自体が日常化して、新しい地平を開く場合もある。つまり冒険の継続という行為が、ある種のニューフロンティアを開く形で日常化するという決着もこの形式の治まりとしてはあり得るわけだ。
(2)と(3)は、ちょっと近すぎるので、分けるか、あるいはもうちょっと共通点を見つけ出して、同一化させるのがよいかは微妙だったりするのだけれども……。

以前に書いたときにはそれほど意識していなかったのだけれども、何らかの形で「最終的に日常性を獲得する」ということの重要性ってのは、色々と念頭に置いて置いた方が良いような気がする。↓ってことでちょっと寄り道

ビルドゥングスロマンとハルマゲドンって相性が良いのか悪いのか?

教養小説の枠組みができた19世紀から20世紀初頭と現在では、ちょっと違った「冒険の枠組み」が出てきたのかなぁという気がする。
それは何かというと、僕の年代で云うと平井和正幻魔大戦」に象徴される「ハルマゲドン」、世界を滅ぼす最後の戦争のイメージだ。あー、さすがに時間がなくてあたっていないが、そうした世紀末の時代気分というのは、簡単に世代が変われば忘れられるけど、人が活きている一生のウチに一度くらいは遭遇するものなのだろう。釈迦入滅一千年でもいいし、ミレニアムエンドでもいいや。
ただオタク第一世代から第三世代は間に20年ぐらいの幅はあるけれども、世紀末とバブル崩壊を経験しちゃったので、そこには宗教的な意味は(少なくとも俺には)薄かったけれども、戦後日本の少年向けコンテンツの変遷になんらかの影を落としているのかもしれないなと思う。
ビルドゥングスロマンというのは、教養小説・成長小説で、そこで乗り越えられる試練というのがハルマゲドンであり、そこでの究極的な善の勝利というのはは悪くないと思っていたのだけれども、どうも80年代末から90年代初頭のオカルトブームの捉え方を見ているとどうも違うんじゃないかという気がしてきた。
ビルドゥングスロマンの枠にかろうじて収まる「世界を救う」と、ハルマゲドン的な「究極の善の勝利=ハルマゲドン的決着(≒で無への回帰もはいりかもしれんが)」って、間に深く大きな溝があるのかもしれない。
コンテンツが大ヒットやインフレとかいったソコココの状況で永続的になると、ビルドゥングスロマンの形態を維持する上では、予想以上に都合が悪いのだろう。
結局、ビルドゥングスロマンって「内在的に世代交代を含む」からだろうか。俺にとっても80年代当初は「だらだら連載を続けるのって良くないよね」程度の認識だったのだけれども、時間がたって考えてみるに、小林よしのりの「脱・正義論」をビルドゥングスロマンとして読んでしまうぐらい悪いのかもしれない。
ビルドゥングスロマン教養小説は、「極限の悪を倒す正義の味方を描く」小説じゃないんだから。延々と続いていくライトノベルや悪役インフレの漫画を念頭に置くと、そう錯覚する部分も出てきてしまうかもしれないけれど。
右肩上がり成長時代とか商業優先のための続編攻勢を目にしてしまうと、どうしても少年モノとしての軸がブレてきてしまい、綺麗な終わり方というか、第三条件的なエンディングを迎えられなくなってしまうわけだ。このあたりはヒーローの日常への回帰という形で後段でもっと精緻に書きたいのだけれども、閑なくて書けないかなぁ……。
あー、こんな導入部を長くするつもりはなかったのだが、武装錬金DEATH NOTEの話に戻る。

DEATH NOTE:汚れた団塊の世代を超えてるべく、白黒主人公が作られる

次世代の少年モノのストーリー展開の解題 - さて次の企画は

DEATH NOTE試論のメモ:デスノートに見られる二つの継承の形 - さて次の企画は
でバラバラになりつつも、ちょろっと書いたのだが今週号のDEATH NOTEのニアのセリフ

「二人ならLに並べる」
「二人ならLを越せる」

にはちょっと震えた。うん、今の時代に伝統と継承を描くとなったら、こう書くしかないよねという枠組みが見えた感じ。
ニアとメロというのを「Lを継承する、白黒コンビのツーマンセル」と見て、「一代の神」「継承者はなくすべては手駒として扱うキラ」と対置すると、決着はこうなるよね。
前から飛び飛びにかいていたけれども、少年向けのコンテンツの変遷していくなかで、次世代の少年向けコンテンツに現れてくる主人公は次のようになるんじゃないかと俺は考えている。

次世代の少年向けコンテンツの主人公(もうジャンプとかでは一般化してるけど)
●主人公は「白」と「黒」の少年が二人。主人公はそれぞれ先天的な天才で、深刻なトラウマを抱えているが、その主体を二つに分割し、ストーリーをツーマンセルで引っ張ることにより、90年代以降の「引き籠もり」傾向を回避しようとする。
●「白」は「黒」より未熟で弱いがポリティカルコレクトネス的に正しく少年モノの王道を進む。「黒」は「白」より強いが、殺人・変態・サイコ衝動を含む自身の汚れを知るがゆえに「白」にコンプレックスを抱き、「白」を助けたいと思っている。
●「白」は童貞。まだ決まったパートナーが存在しないか、あるいはストーリー初期から存在。しかし「黒」は基本的に童貞ではなく女性にモテモテでハーレム状態だが、満たされない。
●ヤリチン不良キャラが、主人公の一方「黒」として登場。白黒の弁証法的な合一を目指すのが、ストーリーの主目的の一つでもある。
●父・師匠的な存在との、伝承・技の継承は「白」に対してなされる。「黒」は、自身が継承者でないことを知っているが、伝承・継承の中に置いて果たされるべき役割を無意識に知っている。

ちょっと脇道に逸れるけれど、日本アニメ・コミックにおいて、なぜロボットを操縦するのが無垢な少年でなければならないかに関しては、内田樹が「街場のアメリカ」で述べている戦後のロボットヒーロー論が興味深い。それをまとめると以下のようになる。

内田樹による戦後のロボットヒーロー解釈(手元に本がないのでうろ覚えで)
ロボットを正しく扱えるのは子供だけ
大人が扱うとロボットは必ず悪を為し、純粋な子供が扱ったときにのみ、正義の味方となる。これは太平洋戦争を行ったときに大人が悪を為し、戦後世界は純粋な子供が作っていくべきだというのを反映している。
親の恩を知らない子供が、親の作ったロボットで戦うのを、すでに手が汚れた大人は銃後から見ているしかないという構図が生まれる。

街場のアメリカ論    NTT出版ライブラリーレゾナント017

街場のアメリカ論 NTT出版ライブラリーレゾナント017


少なくとも戦後直後においては、子供は純粋なものとして見られて「子供が民主的な未来を作るんだ」と本当に信じられていたのは確からしい。
そしてその主役として信じられていたのは、戦後に生まれた「団塊の世代」であったわけだ。あー、ここでも団塊の世代が出てくるんだね。
ところが、「団塊の世代」が右肩上がりの高度成長をしていき、それがいったんは石油危機で崩れたものの立ち直り、プラザ合意を経て「団塊の世代Jr」が自意識を獲得し始めたころに、バブルが崩壊する。
少年犯罪は必ずしも数が増えているわけではないのだけれども、少年犯罪をどのように捉えるかという見方が急速に変わってきたのが、90年代だと言えるだろう。新人類とか新しい世代をとらえる言い方は――ある種、「団塊の世代」こそその一つであるが――80年代〜90年代を経るうちに急速に変わってきたと思う。
それは内田樹の視点からいうのであるならば、
「子供って本当に純粋で無垢なのか? 実は違うのではないか?」
という疑念だ。まぁ、後付的に考えれば当然なのだけれども、すくなくとも鉄人28号鉄腕アトムが発表されたころは、「子供にこそ未来がある」と考えられていたのは間違いなさそうだ。
「街場のアメリカ論」において、内田樹は、鉄人28号からマジンガーZ、機動戦士ガンダム新世紀エヴァンゲリオンとして並記して語っている。確かに大枠とベースに置いては、内田樹が語っていることは正しいし、こうしたロボット物の枠組みというのは、岡田斗司夫も語っているように非常な様式美を持っている。
ただビルドゥングスロマンとしての観点や、その時代性から考えていくと、金田正太郎、兜甲士、アムロ・レイ碇シンジと時代を下るに従って、どんどん成長譚としての成立が難しくなっているのは自明だ。
富野由悠季による新訳・機動戦士Ζガンダムにおいて、発狂しないカミーユ・ビダンが描かれたというのはあるが、正直、キングゲイナーなどと比べるとちょっと時代解釈としては数段落ちているような気がする。富野監督を持ってしても、素直なビルドゥングスロマンとして確立させることが出来なくなっている。
その回避策というのが、週刊少年ジャンプにおいてここ数年、隆盛を誇っている白黒の少年コンビによるビルドゥングスロマンではないかというのが、俺の主張だ。
そういった観点から見てみると、今週号のDEATH NOTEは、「白黒コンビ」「正統な継承の形」というのが見えていて非常に面白かった。
明らかにLをニア・メロが継承するというのは、形として異質ではあったものの――今まで少年マンガで考えられていたようにストレートに白い無垢な少年が継承する形ではない――痛みを伴いつつも、白が黒の犠牲の下に継承し、先代を越えるというのを、少年マンガカテゴリーの中で提示できたのは興味深い。
また一方で、「継承を考えていた」Lに対して、「一代の神としての自分」「手駒には限定情報しか渡さない」キラが、高田―魅上−キラとのコミュニケーション齟齬によって自白に追い込まれるというのは、まぁ必然なんだけど、そこに俺は時代性を感じた。

◆「武装錬金術」最終巻にみる日常への回帰

くそ、時間がないので、今回の校正直しも含めて又今度。
【結構直した。やはり長文久しぶりだしな】