「不良」や「プロ市民」にならずに生き抜いていく「平凡なボク」

http://homepage3.nifty.com/manga/manga/0103nikk.htmの03/18
素晴らしい。和月伸宏とともに最近、妙に気になっている西森博之論として完璧!
ここでは前作品である「天使な小生意気」において、のび太以下の平凡な脇役・藤木がいかにポストモダン的な状況で「善く」生き抜いていくか、加えてそれを拡大したテーマにしたのが、「道士郎でござる」であることを完璧に言い当てている。
頭でっかちな日本人の少年男子の典型とも言える「平凡なボク」が、何とか社会に働きかけようとして、無思慮な行動派の「保守シャカイ派」君にも「ブサヨク・プロ市民」にも、行動後に絶望した引き籠もりのセカイ系ニートにもならず、「善く」生きていくための一手法論として西森博之を解読している。
西森博之は、デビュー作で「不良漫画」を書いたのだが、それがいつの間にか不良に慣れない、頭でっかちのD.T.や白童貞のためにコミックを書いているという解読。

■01/03/18 不良と平凡な僕
 みずからアウトローであることを宣言して、世界からの疎外感から逃れる手法が「不良」ですよね。不良がとらわれる疎外感は、直接的には学校での不適応すなわち成績不振に由来し、さらに成績不振からは職業生活への不適応への不安が関わってくる。まあ男の子だったら単純なもんだから、これと家庭の状態と生来の性向をあわせればおおかたの「不良化の原因」は捉えられるんじゃないかな。あんまロマンチックに捉えるのも、「心の闇」などと奉るのも良くない。
(中略)
 あー、前置き長いな。『天使な小生意気』の藤木君。これが「平凡な僕」の処世としてよろしいんだ。藤木君はいつしか悪王・源造を殴ったり、ヤクザとケンカしたりするようになる。勇気をふりしぼって友を守る。でもその後もフツーなんだよな。変態でも不良でもイイヤツでもない。ヒーローではない。
(中略)
 この世界の中で、ヒーローなり不良なり変態なりの特別な位置を占めていないワタクシも、ヨノナカに働きかけることができる主体なのだということに気づいた藤木。二巻の途中まで出てきてた藤木君と同格の子は、「平凡な僕」に自らを閉じ込めて世界に働きかけるタイプの人間ではないと自己規定して消えていく。主体となった藤木は、ご褒美として天使から祝福を受けるのだが、そこはそれ、フィクションだから。

 天才・エリート・ヒーローじゃなくとも、わかりやすいレッテルなりを引き受けなくとも、つまりいわば客観的には平凡な僕が、主体になりうるんだということを示す意味で『天使な小生意気』は良い作品です。これをしっかり読んどけば「永田町の論理」を告発する「市民」にならないで済むんじゃないか。まあそんなことはかまわず、私はぽろぽろ涙を溢しながら読んでる。

2005-10-15 - ディドルディドル、猫とバイオリン
視線としてのヒーロー論

この作品がエンタメと別のところで面白いのは(もちろんエンタメとしても面白いけど)、主人公がしばしば間に合わない・役に立たないところです。VS級長会編では道士郎と健介は最後まで合流できず、道士郎の影響で悪党を卒業した中学生は抱えたトラブルに道士郎の手を借りることを拒み、夜の街をさまようヒロインを健介は見つけ出すことができない。こいつらは誰にも助けてもらえず、誰にも評価してもらえない戦いを一人でやってるわけです。

よく考えてみるとそんな事態はごく当たり前の事で、現実にはヒーローなんていやしないし、応援してくれる人さえいない事が多い。頑張って何かを成し遂げても、それを誰かが見ていてくれるとは限らないし、失敗すれば言わずもがなです。まったく、人知れずよいことをするなんて時間の無駄もいいとこです。

・・・がしかし、『道士郎でござる』の登場人物たちはそれでも頑張る事をやめない。ヒーローがやってこない/ヒーローになることができない状況でも己が道を貫ける、そんなヒーローならぬヒーローこそが、本作で西森博之が描こうとしているものです。

【参考のリンク集】
2005-11-18 - ディドルディドル、猫とバイオリン

天使な小生意気 (19) (少年サンデーコミックス)

天使な小生意気 (19) (少年サンデーコミックス)