竹下登とは何だったのか?

政治関連の仕事を手伝わなくちゃならなくなった。オイラもオヤジ化してきたよ。初の政治インタビューからいきなり大物へのインタビューだったので冷や汗もの。でも先週、国会図書館に籠もって資料となる様々な本を朝から晩まで読みまくっていたのが役に立った。
新聞社や文藝春秋・講談社などで政治家関連の書籍を出している編集諸氏からアドバイスをもらえたのも勉強になった。今回の選挙に対する自分なりの定見みたいなものも、組み立てられるような気がしていた。……いや気だけかかもしれないけど。
国会図書館で歴代総理や周辺の政治家の「選挙」と「米中への態度」に絡むエピソードをとにかく洗い出すというのが、先週の仕事だったんだけど、その中で鬼気迫るエピソードとして興味深かったのが竹下登だった。
竹下登 - Wikipedia
中曽根政権下で「安竹宮」と呼ばれた、安倍晋太郎竹下登宮澤喜一だが、中曽根政権を禅譲の形で継いだのは竹下登だった。当時大学生ぐらいだどうにも猿に似た顔で根回しの達人と言われていたのものの、どこにその凄みがあるのかがどうしても分からなかったのだけれども、ちょっとその立脚する能力のよりどころ、金丸信と組んで田中派内に自身の派閥「創政会」を結成してから、クーデター的に「経世会」(竹下派)を組んで、党内最大派閥を作り上げてしまった実力と、あの弱腰そう怒ることのなさそう……でも怒ったら陰険なのかなぁ……みたいな印象のアンバラスさが分からなかったのだけれども、それがちょっと見えてきた。
◆最初の妻、竹下政江の自殺
竹下登というと「耐える人」「我慢する人」という風聞が大きくて、実際、見た目の印象もその通りだったのだ。なかなか怒った顔が想像できなくて、陰険な恫喝なんかで最大派閥を運営しているのかなぁなどとリーダー力学的を想像していたのだが、実はトラウマがあって他人を怒ることが絶対に出来ない性格だったのだそうだ。
というのは、最初の妻、竹下政江の死との関係がある。
竹下登は、戦中、滋賀の航空隊に所属していた。1924年生まれだから、終戦時には21歳であることが分かる。当時すでに結婚しており、その妻が政江だった。
敗色濃厚な1945年5月、島根から妻が滋賀の基地に訪ねてきたのだが、竹下登はその行為に激怒して、妻を面罵したらしい。その精神状態はよく分かる。ここから航空隊時代の竹下登がどのような所属だったのかまでは調べる閑がなかったのだけれども、ちょうど時期は沖縄戦の真っ直中、おそらくは目前に迫るであろう本土決戦を間近に極限の精神状態にあったことは分かる。
その竹下登の激烈な痛罵に触れた妻・政江は、島根に帰ってから自殺をしてしまったのだ。
このことが大きな心の傷となってしまい、以降、竹下登は絶対に他人を怒るということが出来なくなったのだそうだ。強烈なエピソードである。
◆数字の奇才、竹下登
後藤田正晴の下で党務をこなしていた竹下登は、とにかく実務というモノに長け、数字の天才だったのだそうだ。それが組織作りに役立ったという位は、まぁちょっと調べれば分かった。党内予備選挙に置ける電話攻勢などはまぁそういったことから予測がついたのだけれども、次のエピソードにはちょっと腰を抜かした。
竹下登は、若い時から一人で衆議院議員の名簿リストを作っていたのだそうだ。ソコにはすべての衆議院議員の当選回数・年齢が書き込まれていたのだそうだ。
そして「自分はいま百三十七番目だ」
と自分のポジショングを総て把握していたらしい。つまり当選回数の多い議員から、新人議員までの序列を付けていたらしい。選挙の旅ごとに引退する議員、落選する議員がいて大体、十番ずつくらい順位付けが上がっていくのを確認していたのだそうだ。
ただそれだけではなく、幾つかの議員には名前の下に赤い線・青い線が引かれている。これは何を意味するのかというと、それは「病気の議員」を表しているのだそうだ。しかも赤と青で重病かそうでないかが分類されていたのだそうだ。
なにか鬼気迫るモノを感じるよなぁ。「気配りの人」「バランスの人」と言われたが、それがパラノイア的な気質の上に築かれていたことがよく分かるエピソードだ。
同じようなモノを党内人事表として作り、自民党の議員を総てリストアップして、大臣をやると1点、党三役なら1.5点。ポストにつく間隔まで計算して、他派閥の人的関係までをすべて計算していたのだそうだ。
こういった性格だから、官僚出身でもないのに全国に渡る集金システムを構築することができ、大派閥の運営に長けていたことが分かる。
この数字に長けていた竹下登が大蔵官僚でもないのに消費税導入を成功させたのだから面白い。