待っている女:「果しなき流れの果に」と「虚無回廊」解釈

読書をする上での師匠というか、端倪すべからざる人がいるのは幸せかもしれない。とりわけそれが両親だったりすると、その人は幸福な読書人生を歩めると思う。オイラの両親は良い読書家ではなかったが、映画に関してはとにかくアンテナが鋭かった。映像に興味を持ったのはそのせいかもしれない。
そんな身近な読書家の中で、オイラにもっとも衝撃的な解釈を次から次へと提示するのが、親戚の叔母さんというのが、困りものである。
コミックはほとんど読まない。年に一度、東京での集まりへ参加するために自宅へやってきては、コミックには目もくれずに、書架にあるSFやらライトノベルを読み、色々解釈をしていっては、また西日本へと帰っていく。
ちなみに日曜の夕方の『笑点』はかならず欠かさない。最近はアンジャッシュと「冬のソナタ」に嵌っているらしい。「ヨンフルエンザに罹った」といって、電話口で嫁を笑わせるのは勘弁して欲しい。ちなみに3年前にはまっていたのが「十二国記」で、X文庫版がお気に入りである。
さて小松左京「果しなき流れの果に」である。
これまた2年ほど前の話だが、最近のSFで面白いのはある?話から転じて、小松左京の話になり「虚無回廊」と「果しなき流れの果に」になると叔母さんはこういった。
「『果しなき〜』は、ラストが良かったなぁ……。男が宇宙の謎を求める間、女は待っているモノなのよね。『虚無回廊』ではどう一歩進めてくるのかしら。小松左京は待つという女性性を書くのが上手いわね」
そう読むか。女性視点をおいた上で二つの作品を並置して語ったのに新鮮な驚きを覚えた。もちろん、伏流としてあるのは判っているが、それを第一感想として持ってくるあたりに面白さを感じた。
昨年は林穣治・北野勇作・霜越かほるに夢枕漠「後書き大全」を飛行機の中で読むと持って帰郷していった。今年は一体何を渡せばよいだろう?