劇場版Ζガンダムでの富野と宮崎の教育観の違い(続き)

先日書いたエントリは反響が大きかったので、それに関連する反響をいくつか書く。
あ、画像は海外のコスプレサイトで見つけた「ふたりはプリキュア」のキュアホワイトのコスプレを。この角度で見ると良くできているような気がするもんで(笑)
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ジブリにおける若手育成への苦労を鈴木敏夫が語っている場面が面白い。

そういえば『海がきこえる』のDVD映像特典の中でも、鈴木敏夫は当時を振り返って、いかに若手たちの現場に宮崎駿を寄せつけないかに苦心したとインタビューで答えていた。とにかく宮崎駿は一切口を出さないと言っておきながら、介入してくるからと。その後、ゼロ号試写で宮崎駿による作品への罵詈雑言はあったものも、『海がきこえる』はジブリにおける若手主導作品への先鞭をつけた。
しかしこの『海がきこえる』に対する「オルグ的作品」として、宮崎駿はのちに近藤喜文を監督にすえた『耳をすませば』へと昇華させる。クリエーターとしては正しい姿勢だが、これではスタジオには思想的フォロワーしか育たない。というか、作品の名を借りたジブリ内での粛清だ。

若手がはじめて仕事をやるときには、未熟であって当然。先達がやろうとしていることの70%も出来れば、それだけで才能あるのだが、それを頭ごなしに怒ることはいけない。非常に難しいのだけれでも、正しい方向へ進むように様々な方法を使い、かつ自分のもっている知識をふるい分けながら後進が受け取ってくれるように伝えていくことが非常に重要だ。
自分のデッドコピーを作ってもしょうがない。差異と出来に多様性を持つ継承者を山のように作った先達の方が文化戦略的に勝つのは間違いないということか。
自身に「いきなり兵の中から将軍を任命する」という天才的なナポレオン風の人材育成が出来ない場合は、西郷隆盛的というか、「責任は全部自分が取るからあとは若い人間にすべてを任せる」という薩摩的な人材育成をするしかないと思うのだが……。まぁバブル崩壊以後は難しいのか。
もうひとつ興味深いコメントを一つ。通りすがりさんからの下記のような指摘があった。

通りすがり 『宮崎が息子を館長に据えたという主張は語弊があると指摘したのに、訂正しないのは何故ですか?』

面白い指摘だ。私が訂正に悩んでいるのは「後進を育てるとき」「若手を起用するときに」にもっともしてはいけないことが、「実力に関係ない身内の重職への起用」だからだ。その一点において責があるからだ。
当然、実力あってかつ業界に長くいたクリエイターならば、息子・娘がその周囲にいるだろう。
そうすると、クリエイターの周りにいる人間から、追従とも言うべき色んな干渉が発生してくる。「息子さんにこの仕事を頼みたい」「娘さんもイラスト描かれるならキャラデザを」といった形で発生してくる。
ああああ、だんだん業界の暗部に突入してきたぞ(笑) そうすると訳の分からないのが登場してくるわけだ。世界戦略を向けたゲームソフトの主人公の名前が某クリエイターの娘の名前「アヤ」だったり、現在、発売中の某TV雑誌の表紙みたいな状態が起こり始めるわけだ。某ヴィジュ●リストとかな。
でも、本当に若手育成に熱心な人間であるならば、そういった肉親をも道具に使うような追従をはねのける。そうしないと若手に疑念を生むから。
まだ実力を発揮していない若手なんか、人間不信と自信過剰と不安の疑念の中を行ったり来たりしているようなヤツが圧倒的に多い。とりわけ義憤に駆られるぐらいの鼻っ柱の強いヤツの方が、実力あるに決まっている。
そのため「正しい報償」が必然的に必要になってくる。この「正しい報償」は、戦国武将とクリエイターが部下に対して行う上で細心の注意を払わなければならないという点で共通している。大会社のように人事部によってソフティケートすることが出来ないのだから。
そういった鼻っ柱の強い才気走った若手の前で「ボクは実力ある若手より、肉親を大事にします」なんて態度を見せようものなら、当然のことではあるが、それは心理的な障壁になって若手は一気に離れる。後に残るは、追従しかできないモノばかり。
だから宮崎に関して言えば「若手を育てたい」と思うのであれば、いくら管理部門であったとしても、たとえ自分の腹心の部下の発案・注進であったとしても、自分の息子を重職に就けることを許可すべきではない。
という訳で、通りすがりさんには下記のように答えます。
「まぁ、上手い直し方を考えます。ちょっと時間かかるけれど」
その意味では、娘ばかりの富野さんの方が、結果的に後進を育てるのにプラスになっているというのも面白い。わりと次女の人とパーティー来ることが多いかな? その意味では家族内に置けるところのシュトム・ウント・ドランクにも片が付いたのだろうか?
これは作品論からも見て取れる。近作になればなるほど、宮崎作品においては「父=息子」「父=娘」関係が混乱していくのに対して、「ブレンパワード」以降、「ターンA」「キングゲイナー」そして「劇場版Ζガンダム」へと、少しずつ富野作品に描かれる「父=息子・娘」の関連が健全なモノへと回帰していっているのが興味深い。それは富野の周囲にいくつかの後継者といえるモノが結果的に生まれつつあるからかも知れない。
もっともそれは、明らかに「健全にしなければ」という背景的な意図が働いている中での表現なので、安易に回収されないようにしなければならないけれど。
……というよりも、今回入ってきた情報で一番、面白いのは鈴木敏夫プロデューサーの変節かな? 『東小金井塾』ワークショップや「海が聞こえる」の頃や「シニアジブリが云々」とか言っていた頃は少なくとも若手を育てようという意識はあったのかも知れない。けれど、徳間から独立した後のジブリの会社の組織構成や、「イノセンス」が失敗した後の「立喰師」に対する態度とかを見ていると、もう鈴木敏夫自身も「ジブリ内で若手を育てることをあきらめているのかもしれないな。
天使の卵」が大失敗して、アニメージュビデオをぶっ潰したというのが、唯一の鈴木敏夫のトラウマであったとおもう。鈴木敏夫のトラウマは押井守の周囲に存在するのだ。その意味でビジネス的な観点から「押井を宮崎の後継者に」と鈴木が思っていた節は、諸処にみられたのだけれども、結局、「イノセンス」でも失敗してもう精も根も尽き果てたのかも知れないな。「ハウルの次の新作は新人監督」だそうだが……。
ZAKZAK
どうも上の発言と私が知っている情報を付き合わせると、「逃げ切ろう」という「団塊の世代」の最近のキャッチフレーズしか浮かんでこない。積ん読がたまっていてまだ映画道楽が読めてないけど。

映画道楽

映画道楽


イノセンス」と「天使の卵」において、鈴木敏夫が行ったプロデュースは、前者では宣伝プロデュースでしかなく、後者ではプロダクションマネジメントであったというのは面白い着目点だと思う。この本にそこまで書いてあるかなぁ?
大塚英志の本にも書いてあったが、鈴木敏夫が宮崎に注目したのは、アニメージュのおたくの若いスタッフが褒めていたからという、あくまで他律的なことが契機であったという部分が大きいのかもしれない。アニメに置ける作品論を鈴木敏夫がどう語っているかに関しては、本を読んでみようと思う。
鈴木敏夫がクリエイティブな側面が強いプロデューサーなのか、あるいはプロダクトマネージャー的な側面が強いプロデューサーなのかを見極めるのは、日本のアニメ業界の動向を調べる上で重要だと思う。
では若手を育てるという意味で、非常に尊敬している漫画家を一人あげよう。それは藤田和日郎だ。色々書きたいこともあるのだけれども、時間がないのでこの辺にしておく。忙しい……。