Ζガンダム劇場版で見る富野と宮崎の教育観の違い

なんか急に予定が空いたのでとりあえず感想を書いてみる。予定外がないかぎり書く時間がないというのは辛いやね(苦笑)。

現状認識として描かれてみっともない大人だらけだったΖガンダムTV版が、劇場版においては、「若者の苛立ちを持ちつつも、前向きなカミーユ」「現状に苦闘しつつも良き大人たらんとするシャア」として描かれているのが、興味深い。作品的にはまだ残りを見なければ分からない。だからちょっと変わった視点で富野監督と宮崎監督を比較してみよう。二人の教育論だ。

富野監督を駆動するエンジンは数多いが、そのうちの一つに「富野の教育好き」がある。これは「説教好き」をも包含していると考えてもイイだろう。富野にはかなり以前から『若者を育てなければいけない』という強迫観念があるようだ。
この考えは、割と手塚治虫と似ている。というか手塚系出身の人にはその感覚が多いような気がする(後述する豊田有恒を含めて)。若い世代の能力に強烈に嫉妬しながらも、その才能を伸ばすことに関しても力を注がねばと思い続けている。
聞いた話だが、キングゲイナーが制作に入る前に、西村キヌなどを「ロシアの心が分からねばキングゲイナーは出来ないから、ロシア料理を食べに行こう」などといって都内の有名ロシア料理店に誘ったとか。いやロシア料理を食べたからといってロシアの心は分からないだろう。またキングゲイナーの漫画家に「アニメのスタジオというモノを教えてやる」と作画現場に何度もつれてきたとか……。漫画家にアニメスタジオ作業を教えるのは、小説家に演技指導するのと同じくらい意味がないことだと思う(文士芝居をならともかく)。でもそういった教育への意欲を持つのは大事なわけだ。
後のイデオンエルガイムからF91まで「若いアニメーターを教育するために」ということをこれほど昔から言い続けて、かつ積極的に若手を起用してきたのは富野以外にいないと思う。これは後述するが、宮崎駿とはかなり正反対だ。
とはいえ富野自身もわりと最近までは若者からは逃げられまくっている観もあった。ようやく今度のΖガンダムエースにおいて永野護がΖを語るというインタビューがあった。それまでは永野はガンダム決別宣言をしていたし(笑) またTV版のための若手教育という側面があったはずのF91は興行的な失敗もあり、また富野コメントによるとあまりの若者のふがいなさに失望したという発言も見られ劇場版だけで終了した。
そして次に作ったのがVガンダムはウッソという頭でっかちで英才教育を受けた「人工天才」の話になるわけだから、なんか御大の軌跡がよく分かる。
それがようやく結実し始めるのが、「ブレンパワード」あたりからで、「ターンA」「キングゲイナー」あたりの大河内一桜・福井晴敏あたりのオタク第2世代と仕事をするようになってようやく、本人的にも満足するようになってきたという感じだろうか。
ところが、宮崎駿の方の陣営に関しては、とにかく後進を育てると言うことに関してうまくいっている気配がない。かろうじて「猫の恩返し」があげられる程度か? 宮崎の右腕と言われるアニメーターが逃げ出したという話や、「ハウルの動く城」における監督交替の話を聞くに、意欲はあったものの、結果としてうまくいっていないというのを感じる。
ジブリ徳間書店から独立したが、資本金はわずか一千万。もちろん宮崎駿の知名度を持ってすれば、もっとお金は集めることが出来たはずだが、ようするに鈴木敏夫が常々主張しているとおり、「ジブリ宮崎駿がアニメを作るための会社、宮崎が死んだら潰す」ということなのだろう。ここで後進を育てると言うことは、技量と志を継承するだけでなく、まだ一人前には働けない若手の将来をある程度生活保障することも含まれるはずだが、どうやらジブリは違うのかもしれない。なんだかなぁ…と思う。まぁこのあたり鈴木敏夫の意向もかなり入っているはずなので、一概に宮崎の責任とは言えないとも思うが……。
同じく手塚の直系世代として、SF作家の豊田有恒が下北沢にパラレルクリエーションを作るなどして若手育成に熱心であったのに対して、アニメーターとして手塚を憎んでいた宮崎駿との対照さが、富野を通じて照らし出されるのもまた面白い。
そうした方向性は富野・宮崎双方の子供観についても現れている。
娘が4人いるものの息子がなく、その娘の教育にも失敗したと自著で愚痴っている。富野作品のダブルヒロイン「子供時代からの近所の幼なじみ」「共闘する異性の戦友で姫」は有名だが、ΖΖのジュドーの妹に、自身の娘像が反映されているのが興味深い。その反面、Ζガンダム以降、キングゲイナーまで「少年が大人の導きで男になる」というビルドゥングスロマンを、正当に描くことに失敗し続けているのが面白い。今回のΖガンダム劇場版は、それにカミーユといういたく90年代以降の少年像を据えた上で成功するかどうかに挑戦をしているという点で興味深い。
一方、自分の息子を三鷹市の税金で建てたに土地供与をしてもらったジブリ博物館の館長にしたことで、いたく評判の悪い宮崎監督(笑)はたしか娘がいなかったはず。自身が子供の教育に失敗したか成功したかに関しては、あまり言葉では語られていないが、「未来少年コナン」「天空の城ラピュタ」では描けていたはずの、ビルドゥングスロマンが近作になるに従って、どんどん成就しずらくなっている。
紅の豚」は、追いつめられるまでは自分の心の傷が痛くて、戦争と向き合わなかった中年男の話だし、少女の大人への過程を描いたはずの「魔女の宅急便」以降、「もののけ姫」「ハウルの動く城」「千と千尋の神隠し」も、最後を強引にファンタジーもしくは、デウス・エクス・マキナでまとめるようになってきている悪癖がマズイ。
ストーリーが最後までまとめられずに作画にはいるという制作スタイルが、そうした強引なオチになってしまうわけだけれども、富野がΖガンダムで陥った罠に今さら宮崎がハマってもがいているという点は注目して良いのかもしれない。
後進との関わりという形においては、両者ともその教育システムの根幹は、わりと戦中的な軍隊教育、あるいは結果的にそれをモデルにした戦後左翼労働運動でのオルグ的教育(←こちらは宮崎的だが)が背後にあるのは共通しているような気がする。詳しく検証していないが、両者が残している逸話にはそうした臭いが感じられる。
早くに亡くなった長浜監督の周囲とは明らかに異質なモノが感じられるのだが……。このあたりから注目した著作があると助かるが、本当のところを知りたいと思う。
そうした富野・宮崎の持つ軍隊教育・オルグ教育を、結果的にオタク第1世代が直接的に受け取れることができなかったというのは、ある種の不幸なのかもしれない。第1世代はミリタリ好きで下の世代に軍隊チックに当たる癖に、上からオルグられるのは嫌というのが多いし(笑)

ただそうした中で、明らかに若手育成にある一定の成果を得つつある富野が、どのような形で劇場版Ζガンダムを作っていくかは要注目である。
多分、Ζガンダムに数多くあった「修正」シーンをどのような形で演出するかによって分かると思うが。
【続きを書いたのでこちらも】
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20050610